徳川家康が武田信玄の甲州流軍学を採用した理由と与えた影響

一国の戦国大名から天下人になった徳川家康。
徳川家康の大出世のカギは軍事編成だったといわれています。

徳川家康武田信玄甲州流軍学を採用した理由と与えた影響を紹介します。

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徳川家康が武田信玄の甲州流軍学を採用した理由

甲州流軍学とは、小幡景憲が開いた軍学流派で武田信玄の戦術を改良したものです。

甲州流軍学が確立したのは慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以降。

そのため、徳川家康が採用したのは(厳密に言えば)甲州流軍学ではなく、武田信玄の戦術です。
ただ、便宜上、こちらでは甲州流軍学、武田流と呼ぶことにします。

軍事的機密の流出を恐れたから

天正13年(1585年)11月、徳川家康の片腕だった石川数正が突然出奔しました。

石川数正の出奔先は徳川家康が対立する豊臣秀吉。

翌年の天正14年(1586年)には、徳川家康は豊臣秀吉に臣従します。
でも、石川数正が出奔した頃、徳川家康と豊臣秀吉の間にはまだ火花が散っていました。

石川数正が豊臣秀吉に徳川家の軍制を漏らしたら…

と心配した徳川家康。

谷村城(甲斐国都留郡)の城主・鳥居元忠を呼び出し、武田信玄が取り入れていた軍法に関する書物を持参するよう命令しました。
そして、井伊直政、榊原康政、本多忠勝に関連書物を読ませ、軍制を武田流(甲州流)に改めました。

武田遺臣が多かったから

天正壬午の乱を経て、徳川家康は旧武田領である甲斐国、信濃国を手に入れます。

甲斐国、信濃国の武田遺臣は徳川家の傘下に入りました。
つまり、武田遺臣が徳川家臣の大きな割合を占めていたんです。

長年にわたって武田家のもとで戦ってきた武田遺臣が、徳川流にすぐ馴染めるわけがありません。
また、武田遺臣の中には、徳川家康に心から従えない者もいました。

武田遺臣の心を掴まなければいけなかった徳川家康。
徳川家の軍制が武田流に変わるのは自然な流れだったのではないでしょうか。

武田流が優れていたから

三方ヶ原の戦いをはじめ、数々の戦いで武田信玄に敗北した徳川家康。

徳川家康は武田信玄を恐れ、大事な家臣を殺されたことを恨みながらも、一方では尊敬していました。

徳川家康は武田遺臣から武田信玄の話を聞き出したり、文字起こしさせたりします。

中には、
☑ 影武者をうまく利用すること
☑ 狙撃されないよう、目立たない鎧を着用すること
など、徳川流にはなかった戦術がありました。

武田流のいいところを取り入れているうちに、徳川家の軍制は武田流へと変化していきました。

三備体制では限界だったから

三河国、遠江国の2ヶ国を治めていた頃の徳川家の軍制では、三備(みつぞなえ)体制を採用していました。

① 三河国を東西の2つに分けて、酒井忠次が東三河、石川数正が西三河
徳川家康が旗本先手役と共に遠江国
を統括していたんです。

天正壬午の乱を経て、駿河国、甲斐国、信濃国の3ヶ国が領地に加わります。
そのため、三備体制では5ヶ国を支配できませんでした。

つまり、勢力を拡大していた徳川家は軍制改革に迫られていました。

与えた影響

武田二十四将の一人・小幡昌盛の三男・小幡景憲は、関ヶ原の戦いに東軍として参戦。

武田流の軍制で徳川家康を勝利に導いた小幡景憲は甲州流軍学を開きます。

小幡景憲は自ら教鞭をとり、甲州流軍学は武士の学問として話題になります。

小幡景憲の弟子である
① 北条氏長
② 富永勝由
③ 梶定由
④ 近藤正純
は小幡門四哲同学と呼ばれ、中でも、北条氏長は甲州流軍学を独自に改良して、北条流兵法を開きました。

また、北条氏長の弟子・山鹿素行は山鹿流を開き、軍学がブームとなります。

例えば、赤穂城は甲州流軍学を用いて築城されました。

慶安2年(1649年)、赤穂藩主・浅野長直は近藤正純に設計を任せ築城を開始。
石塁を複雑に折り曲げる横矢掛りを用いて、守りを固めました。

また、承応元年(1652年)には山鹿素行を召し抱え、赤穂城二の丸虎口の縄張りを改めました。

戦のない江戸時代では、軍学を実戦に活かす機会はありませんでした。

ただ、さまざまな軍学は戦国武将の軍事的知識を後世に伝える一つの手段になります。
私達が戦国武将の戦い方を知ることができるのも、江戸時代に軍学がブームとなったおかげなんですね。

まとめ:甲州流軍学は江戸時代にブームを巻き起こした!

徳川家康武田信玄甲州流軍学を採用した理由と与えた影響を紹介しました。

勢力を拡大するにつれて、軍制改革を迫られていた徳川家康。
石川数正の出奔は徳川家康の尻をたたきました。

江戸時代に武田流が流行するなんて、武田信玄もあの世でビックリしたのではないでしょうか。

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