小牧・長久手の戦いで、徳川家康に事実上敗北した豊臣秀吉。
豊臣秀吉が徳川家康に勝つ最後の機会だったといわれているのが、蟹江城の戦いです。
豊臣秀吉が蟹江城を奪った理由と徳川家康・織田信雄が取り戻すまでの経過を紹介します。
豊臣秀吉が蟹江城を奪った理由
天正12年(1584年)4月9日に、徳川・織田連合軍と豊臣軍の間で行われた長久手の戦い。
豊臣軍は徳川・織田連合軍に大敗し、2500人もの損害を出しました。
この後、戦況は膠着状態に陥り、
・徳川家康は清洲城
・織田信雄は伊勢長島城
・豊臣秀吉は大坂城
に帰りました。
徳川家康がいる限り、織田信雄を倒せない…
そう判断した豊臣秀吉は方針を転換。
徳川家康と織田信雄の連絡網を断ち、織田信雄を孤立させることにしました。
豊臣秀吉が注目したのは、清洲城と伊勢長島城の中間地点にある蟹江城。
伊勢湾に面する蟹江城は兵や武器、食糧を運び入れる拠点でもありました。
① 徳川家康と織田信雄の連絡網を断つ
② 兵や武器、食糧を奪い取る
などして、織田信雄との戦いを有利に進めようと考えました。
蟹江城には、
① 本丸、二の丸、三の丸の三郭
② 大野城、下市場城、前田城の3つの支城
がありました。
蟹江城をスムーズに攻略するべく、豊臣秀吉は蟄居中の滝川一益を呼び出しました。
滝川一益は豊臣秀吉と対立する柴田勝家に味方しました。柴田勝家が敗れ自害すると、滝川一益は豊臣秀吉に降伏。
織田家宿老の丹羽長秀を頼って、越前で蟄居していました。
それは、滝川一益が、
① 元蟹江城主だった
② 前田城主・前田長定と親戚だった
からです。
また、親戚であれば調略しやすいと考えた豊臣秀吉は、滝川一益に蟹江城攻撃の指揮を任せました。
蟹江城主は織田信雄の家臣・佐久間正勝(信栄)でしたが、織田信雄の命令を受けて、蟹江城を離れていました。
蟹江城の留守は叔父・佐久間信辰と前田長定が務めていました。
豊臣秀吉の読みどおり、前田長定は滝川一益の調略を受け入れ、豊臣秀吉に寝返ります。
天正12年(1584年)6月16日、前田長定は佐久間信辰を蟹江城から追い出しました。
この時、
① 前田長定が城主を務める前田城
② 前田長定の弟・前田長俊が城主を務める下市場城
も豊臣秀吉のものとなりました。
☑ 徳川家康と織田信雄の連絡網を断つ
☑ 兵や武器、食糧を奪い取る
☑ 滝川一益の親戚が城主を務める支城を一気に攻略する
ため。
徳川家康・織田信雄が蟹江城を取り戻した経過
蟹江城、前田城、下市場城が攻略されたと知った徳川家康と織田信雄。
二人は唯一攻略されていない支城・大野城に向かいます。
大野城はまさに陥落寸前。
でも、徳川家康と織田信雄が向かっていると知った滝川一益は蟹江城に退却しました。
6月18日、徳川家康と織田信雄は2万人の兵を率いて、蟹江城、前田城、下市場城を包囲。
下市場城を陥落させ、前田長俊を討ち取った後、豊臣軍を援護していた九鬼水軍を破ります。
九鬼水軍を破ったことで、徳川・織田連合軍は海上封鎖に成功しました。
6月20日には、徳川家康が東から、織田信雄が南、西から蟹江城を攻めました。
そして、翌々日、徳川・織田連合軍は蟹江城に総攻撃を仕掛けます。
7月3日、徳川家康と織田信雄は蟹江城を攻略。
織田信雄は滝川一益に寝返った前田長定を許せず、切腹させました。
滝川一益は伊勢神戸城に逃げましたが、富田知信は滝川一益を追い返します。
滝川一益が逃げることを予想し、周辺の城主に「滝川一益がやって来ても城に入れないように」と命令していました。
徳川家康と織田信雄が蟹江城に集まっている間に尾張を攻めようと、豊臣秀吉は美濃に移動。
ところが、徳川家康は酒井忠次を小牧山城に帰らせ、先手を打っていました。
豊臣秀吉は尾張を一度も攻められないまま、大坂城に帰りました。
まとめ:蟹江城の戦いは豊臣秀吉の最後のチャンスだった!
豊臣秀吉が蟹江城を奪った理由と徳川家康・織田信雄が取り戻すまでの経過を紹介しました。
蟹江城を攻略して、徳川家康と織田信雄の連絡網を断つ。
豊臣秀吉の着眼点は良かったものの、徳川家康に見抜かれてしまいました。
大野城を守り抜いた山口重政は、後に織田信雄の陪臣から常陸国牛久藩の初代藩主にまで出世します。
縁とは何がきっかけになるか分からないものですね。
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