徳川家康と真田昌幸の戦い・第一次上田合戦の原因と経過、結果

・戦国大名として独立する前の真田昌幸
・5ヶ国の大国を治める徳川家康
の間で繰り広げられた第一次上田合戦。

徳川家康真田昌幸の戦い・第一次上田合戦原因経過結果を紹介します。

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徳川家康と真田昌幸の戦い・第一次上田合戦とは?

上田合戦とは、
① 天正13年(1585年)に、鳥居元忠軍と真田軍
② 慶長5年(1600年)に、徳川秀忠軍と真田軍
の間で行われた戦いを指します。

第一次上田合戦、第二次上田合戦とそれぞれ呼ばれていますが、2つの戦いに繋がりはありません。

どちらも上田城付近で行われたため、上田合戦と呼ばれているだけで、
・第一次上田合戦が第二次上田合戦の前哨戦
・第二次上田合戦が第一次上田合戦の続き
というわけではありません。

こちらでは、第一次上田合戦について紹介します。

第一次上田合戦の原因

真田氏は武田信玄や武田勝頼に代々仕え、武田氏のもとで勢力を保ってきました。

天正10年(1582年)3月、天目山の戦いで武田勝頼が自害し、武田氏が滅亡。

真田昌幸は織田信長に従属しました。

武田氏が滅亡してから3ヶ月後、織田信長が本能寺の変で討たれます。

織田氏が支配し始めたばかりの旧武田領は混乱に陥り、国衆が次々と反乱を起こしました。

そして、旧武田領を巡って、
① 徳川軍
② 上杉軍
③ 北条軍
の3つ巴戦・天正壬午の乱が勃発。

自領の沼田を守るべく、真田昌幸は上杉氏、北条氏、そして、徳川氏と従属先をコロコロ変えます。

本領安堵を約束された真田昌幸は徳川家康のもとで大活躍。
真田昌幸を含む武田遺臣の手助けを得て、徳川軍は勝利しました。

その後、徳川家康と北条氏政の間で、
① 徳川家康の次女・督姫を北条氏政の長男・氏直に嫁がせる
② 信濃国、甲斐国は徳川領、上野国は北条領とする
という和睦条件が交わされます。

徳川家康から本領安堵を約束されていた真田昌幸。
自領である沼田が北条氏に引き渡されるなんて寝耳に水です。

徳川家康は沼田に代わる土地を真田昌幸に用意しようとします。

でも、北信濃、越後、北関東を結ぶ沼田は、他の土地よりも価値のある土地でした。

真田昌幸は仮病を使って、徳川家康に対する返答を先延ばしにし、
① 上杉景勝と再び同盟を結ぶ
② 居城・上田城で徳川軍を迎え撃つ準備を整える
などしました。

一方、真田昌幸の不穏な動きに気付いていた徳川家康は、
① 上杉景勝に従属して裏切ったこと
② 沼田を引き渡さないこと
を理由に、上田城に攻め入りました。

第一次上田合戦の経過

真田氏討伐を掲げて、徳川家康は鳥居元忠に7000人の兵を任せます。
徳川軍は北国街道を通って、上田城に進軍しました。

徳川家康は鳥居元忠があっという間に勝利すると思っていました。

というのも、
① 上田城は天正11年(1583年)に築城を開始した城で未完成だったから
② 真田軍の兵は2000人だったから
です。

徳川家康は簡単に勝てると思っている。
真田昌幸は徳川家康の自信と思い込みを上手く利用します。

上田城におびき寄せる

真田昌幸は徳川軍が進む北国街道におとりの兵を配備しました。

そして、退却するように見せかけて、徳川軍に兵を追わせ、上田城におびき寄せました。

徳川軍が二の丸に到着すると、真田軍の伏兵が徳川軍を攻撃。
大混乱に陥った徳川軍は来た道を引き返すように退却しました。

千鳥掛の柵に閉じ込める

退却する徳川軍の目の前に立ちはだかったのは、真田軍ではなく千鳥掛の柵。

坊っちゃん
坊っちゃん

左右交互に、斜めに配置された千鳥掛の柵はまるで迷路。

柵を出るのに、徳川軍は手間取ってしまいました。

この間に、上田城から7キロメートル離れた戸石城で待機していた真田昌幸の長男・真田信之が出陣。
真田昌幸と共に、敗走する徳川軍を追いかけます。

神川を増水させる

徳川軍の本陣まであとわずかになると、真田軍は徳川軍を追いかけるのを中止。

徳川軍が神川を渡ろうとした時に、堤防を決壊させ、徳川軍に大量の水を流し込みます。

徳川軍の損害は1300人。
ほとんどが溺死で命を落としました。

徳川家臣の中でも戦上手な鳥居元忠が敗北したと知った徳川家康。
真田氏を恐れ、徳川家康は真田氏討伐から手を引きました。

第一次上田合戦の結果

兵7000人で上田城を攻撃した徳川軍は1300人もの損害を出しました。
一方、兵2000人で徳川軍を迎え討った真田軍の損害はわずか40人。

第一次上田合戦は真田軍が圧倒的勝利をおさめました。

この後、真田昌幸は次男・真田信繁を人質に出して、豊臣秀吉に従属します。

・第一次上田合戦で真田軍に敗北したこと
・真田昌幸が豊臣秀吉に従属したこと
から、徳川家康は真田昌幸に手を出せなくなりました。

真田昌幸を恐れた徳川家康は、本多忠勝の娘・小松姫を自分の養女にします。
そして、真田昌幸の長男・真田信之に嫁がせて、真田氏を懐柔しました。

まとめ:徳川家康は真田昌幸の罠にハマってしまった!

徳川家康真田昌幸の戦い・第一次上田合戦原因経過結果を紹介しました。

真田昌幸を敵に回したくなかった徳川家康は真田氏と姻戚関係を築きました。
後に起こる関ヶ原の戦いで、この姻戚関係が原因で真田氏を分裂させるとは知らずに…

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