天正壬午の乱を経て、5ヶ国を支配することとなった徳川家康。
関東を支配する北条氏と手を組み、勢力を順調に拡大していました。
ところが、天正14年(1586年)、徳川家康は豊臣秀吉に臣従します。
徳川家康が豊臣秀吉に臣従(上洛)した理由と与えた影響を紹介します。
徳川家康が豊臣秀吉に臣従(上洛)した理由
5ヶ国を治める戦国大名だった徳川家康。
小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉に勝つ見込みが十分ありました。
にも関わらず、何故、豊臣秀吉に臣従することを選択したのでしょうか。
豊臣秀吉と争っている場合ではなかったから
天正12年(1584年)3月から11月にかけて行われた小牧・長久手の戦い。
戦況は徳川家康が有利でしたが、徳川家康の領地・東海地方は飢饉に見舞われていました。
天正11年(1583年)から地震や大雨が続いていたんです。
若者は戦に動員されたため、老人や子供が田畑に取り残されました。
体力のない老人や子供だけでは、田畑を耕すことはできません。
やがて、田畑は荒廃し、食糧の確保が困難になりました。
それでも、戦う兵のために、人々はわずかな食糧を差し出さなければいけません。
明日を思い描けなくなった人々は自ら命を絶ちます。
自領の立て直しを迫られた徳川家康は豊臣秀吉と争っている場合ではありませんでした。
根負けしたから
小牧・長久手の戦いで徳川家康の恐ろしさを知った豊臣秀吉。
織田信雄を通じて、豊臣秀吉は徳川家康との接触を試みます。
豊臣秀吉は妹・朝日姫(旭姫)を夫と離縁させ、徳川家康の継室として強制的に嫁がせました。
徳川家康が朝日姫を拒んだら、朝日姫は行くあてがありません。
天正14年(1586年)5月、同情した徳川家康は朝日姫を継室に迎えました。
その半年後、豊臣秀吉は母・大政所を岡崎城に送ります。
妹だけでなく、母まで人質として差し出した豊臣秀吉。
もし、ここで徳川家康が上洛しなければ、全国で「器の小さい男だ」と非難されてしまうかもしれません。
2年間にわたって豊臣秀吉と対立してきた徳川家康も、最終的には根負けしました。
平和を願っていたから
徳川家康の旗印に書かれた「厭離穢土 欣求浄土」。
「汚れた世の中が平和な世になりますように」という徳川家康の想いが込められています。
この時、「厭離穢土 欣求浄土」という言葉に出会い、それ以来旗印として掲げてきました。
徳川家康は豊臣秀吉と2年間にわたって対立してきました。
戦で失われた命は数えきれません。
戦と落とさなくてもいい命を減らせるなら…
平和な世をつくるべく、徳川家康は豊臣秀吉に臣従することを決意しました。
与えた影響
徳川家康の豊臣秀吉に対する臣従はどのような影響を与えたのでしょうか。
豊臣秀吉の株が上昇した
豊臣秀吉に臣従すると決めた徳川家康。
上洛するべく、徳川家康は駿府を出発します。
大坂城を訪ねる(上洛する)前日、徳川家康は豊臣秀吉の弟・秀長の邸宅に泊まりました。
すると、明日会うはずの豊臣秀吉が突然やって来ました。
豊臣秀吉は宴会を開き、「明日は皆の前で『関白殿下』と呼んでほしい」とお願い。
徳川家康は依頼されたとおり、
・豊臣秀吉を「関白殿下」と呼ぶ
・両手をついて頭を深々と下げる
などして、臣下の礼をとりました。
その場に居合わせた諸大名は、
あの徳川家康を臣従させるなんて!関白殿下はやっぱりスゴイ!
とビックリ。
徳川家康が臣従したことで、豊臣秀吉の株が上昇しました。
徳川家康は北条氏との板挟みになった
天正壬午の乱を終結させるにあたり、徳川家康と北条氏政は同盟を結び、子供を結婚させて姻戚関係を築いていました。
関東の北条氏と東海の徳川氏が手を組んだことで、小牧・長久手の戦いにおいて、豊臣秀吉をけん制することができました。
でも、徳川家康が豊臣秀吉に臣従することとなった今、豊臣秀吉をけん制する必要はありません。
北条氏と同盟を結んでいた徳川家康は豊臣秀吉と北条氏政の間で板挟みになりました。
まとめ:豊臣秀吉は徳川家康の本心を見抜いていた!
徳川家康が豊臣秀吉に臣従(上洛)した理由と与えた影響を紹介しました。
徳川家康と豊臣秀吉の間で行われた戦いは小牧・長久手の戦いだけ。
徳川家康の人一倍強い同情心や平和を願う気持ちに注目し、豊臣秀吉は臣従を求めました。
豊臣秀吉は戦わずして徳川家康を臣従させることに成功したといえるのではないでしょうか。
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