藤波畷の戦いと三河一向一揆で徳川家康に二度敗れた吉良義昭

桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことで、運命が大きく変わった三河東条吉良氏・吉良義昭。
徳川家康の標的となった吉良義昭は徳川家康と戦うも二度敗れ、三河国を離れざるをえませんでした。

藤波畷の戦い三河一向一揆徳川家康に二度敗れた吉良義昭の生涯を紹介します。

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三河西条吉良氏の当主となる

吉良義昭は三河西条吉良氏6代目当主・吉良義堯(よしたか)と今川氏親の娘・徳蔵院の間に三男として誕生しました。

今川氏親は今川義元の父です。
つまり、吉良義昭は今川義元の甥となります。

一番上の兄・吉良義郷が吉良義堯の跡を継ぎましたが、天文9年(1540年)に亡くなります。
続いて、兄・吉良義安が跡を継ぎましたが、吉良義安の養父である三河東条吉良氏7代目当主・吉良持広が亡くなります。

そこで、吉良義安が三河東条吉良氏の家督を継ぎ、吉良義昭が三河西条吉良氏の家督を継ぐこととなりました。

三河東条吉良氏の当主を兼ねる

天文18年(1549年)、今川義元が織田信長の異父兄である安祥城主・織田信広を攻撃。

この時、兄・吉良義安は織田氏に従い、吉良義昭は今川氏に従っていました。

今川義元が勝利し、織田氏に従った吉良義安は人質として駿府へ送られました。

これにより、三河東条吉良氏の当主は不在に。
今川氏に協力した吉良義昭は三河東条吉良氏の家督をも継ぐこととなり、両吉良氏の当主となりました。

両吉良氏の当主となった吉良義昭の地位と知名度は一気に高まります。

おゆう
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でも、これは、今川義元の策略。
吉良義昭に両吉良氏の当主を務めさせ、吉良氏を統一することで、今川家の支配下に組み込みやすくしたんです。

今川義元の三河国支配に利用されることとなったとはいえ、吉良義昭は今川氏という強力な後ろ盾を得ることができました。

後ろ盾・今川氏を失う

ところが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれます。

今川義元の跡を継いだ今川氏真には人望がなく、今川家臣は次々と今川家を離反。
今川氏は急速に衰退し、吉良義昭の運命は大きく変わります。

今川家で長年人質生活を送っていた徳川家康までも今川氏から独立。

三河国における勢力を拡大しようと、吉良氏を攻撃するようになりました。

善明堤の戦いで引き分ける

永禄4年(1561年)4月、徳川家臣・松平好景が吉良義昭の拠点とする東条城を攻撃します。
決着がなかなかつかず、徳川家康自ら東条城を攻撃しました。

でも、吉良義昭は一生懸命抵抗し、徳川家康から東条城を守り抜きました。

藤波畷の戦いで敗北する

続いて、9月には、藤波畷の戦いが勃発しました。

徳川家康の重臣である大久保忠世の弟・忠包を討つことに成功します。
でも、吉良義昭自身も家老・富永忠元を失い、戦意を喪失してしまいました。

吉良義昭は東条城を明け渡して、徳川家康に降伏しました。

三河一向一揆で再興を図るも敗れる

永禄6年(1563年)、吉良義昭に吉良氏再興のチャンスがやってきます。
一向宗の信徒だけでなく、徳川家臣までもが徳川家康に剣を向けた三河一向一揆です。

吉良義昭自身は一向宗の信徒ではありませんでしたが、一揆衆と手を組んで、徳川家康を攻撃。

ところが、徳川家康はなんとか踏ん張って一揆を鎮圧し、東条城は陥落してしまいました。
居場所を失った吉良義昭は三河国を出ざるをえなくなりました。

吉良義昭は近江国へ逃げた後、摂津国芥川へ向かい、その地で亡くなりました。

まとめ:吉良義昭は若かりし徳川家康の宿敵!

藤波畷の戦い三河一向一揆徳川家康に二度敗れた吉良義昭の生涯を紹介しました。

今川義元の命令を受けて、三河西条吉良氏、三河東条吉良氏の当主となった吉良義昭。
今川義元が亡くなった後は、三河国で勢力を拡大しようとする徳川家康と戦い続ける人生を送りました。

結果としては、徳川家康に敗北しましたが、後世に名を残すほど、吉良義昭は徳川家康にとって手強い相手だったのではないでしょうか。

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