① 豊臣秀吉の紀州征伐
② 徳川家康の報復
から高野山を守った一介の僧・木食応其。
木食応其の生涯を紹介します。
豊臣秀吉から高野山を守った木食応其
木食応其は天文5年(1536年)生まれで、南近江の六角義賢家臣・佐々木義秀のもとに誕生しました。
名前は深覚といいます。
木食応其の身長は当時珍しい180センチメートル。
大きな体格を活かして武芸を学ぶ一方で、歴史や仏教を学び、まさに文武両道に励みました。
ただ、木食応其には戦の運がありませんでした。
永禄11年(1568年)に六角義賢が豊臣秀吉に敗れると、木食応其は高取城を拠点とする越智氏に仕えます。
ところが、越智氏も間もなく戦で敗れてしまいました。
出家し木食僧となる
天正元年(1573年)、行き場を失った木食応其は38歳で出家。
高野山に入り、僧となる道を選びました。
木食応其は宝性院の僧・勢誉から戒律を受け、応其と改名。
僧は肉や魚を食べることを禁じられていましたが、木食応其は米や麦、粟や豆などの穀物をも断ちました。
木食応其が食べたのは木の実や草のみでした。
当時から高野山には全国から僧が集まっていましたが、木食応其のように木食行を行った僧はほとんどいませんでした。
やがて、木食応其は「木食上人」と呼ばれるようになりました。
豊臣秀吉から高野山を守る
本能寺の変で主君・織田信長を失った豊臣秀吉は、織田信長の遺志を継いで紀州征伐に乗り出します。
天正13年(1585年)、岸和田城に入城した豊臣秀吉は根来寺(和歌山県岩出市)を攻略。
更にその翌日には、粉河寺(和歌山県紀の川市)を焼き討ちしました。
その後、毛利水軍と共に太田城(和歌山市)を攻め落とし、豊臣秀吉は高野山に狙いを定めました。
といっても、高野山は仏教の聖地。
他の寺と同じように攻略しては、全国で一揆が起きるかもしれません。
そこで、豊臣秀吉は次の3つの条件を突き付けて、高野山に降伏を迫りました。
① 必要に応じて、境内の土地を没収する
② 僧は武具を所持してはならない
③ 謀反を起こしてはならない。また、謀反人を匿ってはならない
豊臣秀吉の要求を受け入れて高野山を守ったとしても、豊臣秀吉の気分次第で高野山を失いかねない条件。
高野山の僧達は悩んだ末、豊臣秀吉と交渉を行うことにしました。
知識に長けた前検校良運、行僧・空雅と共に、木食応其は粉河で豊臣秀吉と面会します。
実は、元武士である木食応其と豊臣秀吉は旧知の仲。
木食応其が和歌に精通していたこともあり、豊臣秀吉と話が弾みました。
木食応其は豊臣秀吉に降伏する姿勢を示しつつも、高野山を守れるよう説得。
そして、高野山に3000石を寄進し、また、大塔を建立します。
更に、天正20年(1592年)には、母・大政所の菩提所・剃髪寺(後の青巌寺・金剛峯寺)をも建立しました。
文禄3年(1594年)、豊臣秀吉は高野山に大名を招き、連歌会を開きました。
連歌会には、豊臣秀吉、木食応其をはじめ、前田利家や徳川家康が出席。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると、遺体を伏見城から阿弥陀ヶ峰(京都市東山区)に移して埋葬しました。
徳川家康から高野山を守った木食応其
豊臣秀吉から気に入られ、高野山内で高い地位を築いた木食応其。
ところが、亡き豊臣秀吉に代わって天下を主導したのは、豊臣家と対立する徳川家康でした。
豊臣家が不利な戦況にあると判断した木食応其は、豊臣方に降伏を迫って回ります。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いでは、豊臣方である
・伊勢国安濃津城
・近江国大津城
に降伏を促しました。
木食応其が降伏を促したおかげで、徳川家康は戦わずして開城させることができました。
でも、木食応其は豊臣秀吉と仲の良かった僧。
木食応其を警戒していた徳川家康は、木食応其のこの行動を徳川家に対する裏切りだと捉えました。
このまま高野山にいては、徳川家康が高野山に攻め入るかもしれない…
と考えた木食応其は高野山を自ら離れ、近江国飯道寺に隠棲。
慶長13年(1608年)に73歳で亡くなりました。
まとめ:木食応其は戦国武将の心を読んでいた!
木食応其の生涯を紹介しました。
時には積極的に、時には自ら身を引くことで、木食応其は高野山を守り通しました。
元武士だった木食応其は豊臣秀吉と徳川家康の気持ちや考えを理解することができたのかもしれませんね。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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