「宋版史記」や「漢書」を集め、深い教養と見識で知られる直江兼続。
ところが、直江兼続が送った直江状は徳川家康を怒らせてしまいました。
直江兼続が徳川家康に直江状を送った理由と名前の由来、内容と長さを紹介します。
直江状とは?
直江状とは、慶長5年(1600年)に上杉景勝の家臣・直江兼続が徳川家康に送った書状を指します。
直江状は徳川家康を怒らせ、上杉景勝を討つ会津征伐を決意させたといわれています。
直江兼続が徳川家康に直江状を送った理由
家老とはいえ、直江兼続は上杉景勝の一家臣。
一家臣である直江兼続が内府・徳川家康に書状をただ送るわけがありません。
実は、直江状は徳川家康が上杉景勝に送った書状の返事。
つまり、徳川家康が先に書状を送ったんです。
慶長5年(1600年)2月、越後国高田藩初代藩主・堀秀治は、
・上杉景勝は武器を集めている
・謀反を企てているのではないか
と徳川家康に訴えました。
危機感を募らせた徳川家康は、上杉景勝に上洛して説明するよう要求します。
ところが、上杉景勝は徳川家康の要求に応じませんでした。
その一ヶ月後、上杉家臣・藤田信吉が突如出奔し、
上杉景勝が謀反を企てている!
と訴えます。
堀秀治の訴えは予想でしたが、家臣だった藤田信吉の訴えは確実性の高いもの。
徳川家康は上杉景勝に書状を送り、上洛するよう再び要求します。
直江状はこの書状に対する返事です。
直江状の名前の由来
直江状の名前の由来は、送り主・直江兼続に由来します。
一方、直江状に対して、徳川家康が上杉景勝に送った書状は承兌書状と呼ばれています。
というのも、徳川家康と上杉景勝が書状を直接送り合ったわけではなく、
・徳川家康の代理として西笑承兌(さいしょうじょうたい)
・上杉景勝の代理として直江兼続
が書状を送り合ったためです。
直江状の内容
直江兼続が徳川家康に直江状を送ったのは、
① 徳川家康の上杉景勝に対する謀反の疑いを晴らす
② 上洛が困難であることを伝える
ため。
以上の2点の目的を念頭に置いて、直江状の内容をみていきたいと思います。
(直江状は承兌書状の質問に回答する形で書かれています。)
まず、①の徳川家康の上杉景勝に対する謀反の疑いを晴らすための回答。
遠く離れた会津で謀反の噂が立っては、内府様(徳川家康)もいてもたってもいられませんよね。でも、会津については心配しなくても大丈夫ですよ。
続いて、②の上洛が困難であることを伝えるための回答。
それに、10月から3月は雪が積もるので、会津を気軽に出られないんですよ。信じられないなら、会津の民に聞いてみてくださいね。
そして、最後に、
・上杉景勝は武器を集めている
・謀反を企てているのではないか
と徳川家康に訴えた堀秀治を「無分別者」と呼び、相手にしないよう警告しています。
その他、武器を集めている理由について、
(徳川家康などの)都会に住む武士が茶器を集めているのと同じ。
と言っています。
徳川家康だけでなく、織田信長、豊臣秀吉は数々の茶器を集めていました。
武器と茶器を同列に並べた直江兼続。
織田信長と豊臣秀吉が生きていたら、三英傑全員で怒っていたかもしれませんね。
直江状の長さ
直江兼続が徳川家康に対して嫌味を書き連ねた直江状。
原文は多く、そして、長いんです。
イライラさせられながらも、ついつい読み進めてしまう直江状はまるでカーペット。
直江状の長さは5.45メートル、幅は0.3メートルといわれています。
徳川家康の身長は1.59メートルだったので、自分の身体3.5体分もの書状を読まされたことになります。
西笑承兌からの書状が直江兼続の手元に届いたのは4月13日。
直江状に書かれた日付は、なんと、4月14日。
直江兼続は西笑承兌から届く書状の内容を予測して、先に返事の内容を決めていたのかもしれませんね。
まとめ:徳川家康は嫌味たっぷりの直江状にプンプン!
直江兼続が徳川家康に直江状を送った理由と名前の由来、内容と長さをわかりやすく紹介しました。
① 徳川家康の上杉景勝に対する謀反の疑いを晴らす
② 上洛が困難であることを伝える
ために、直江兼続が徳川家康に送った直江状。
ところが、直江状は徳川家康の怒りを買い、会津征伐を決意させました。
直江兼続はどのような目的で嫌味を含ませたのでしょうか。
大河ドラマ「どうする家康」を見るなら、こちらのDVDがオススメです。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!