徳川家光(竹千代)の乳母・春日局の生涯と死因、徳川家康との関係

小説、漫画、映画、ドラマとさまざまな分野で主人公に取り上げられる春日局。
徳川家光を将軍に育て上げ、支え続けた乳母として有名ですが、春日局とはどのような人物なのでしょうか。

徳川家光竹千代)の乳母春日局)の生涯と死因徳川家康との関係を紹介します。

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徳川家光の乳母・春日局(福)の生涯

春日局は天正7年(1579年)生まれ。
明智光秀の家臣・斎藤利三と稲葉良通(一徹)の娘・安の間に誕生しました。

名前は福といいます。

公卿・三条西公国に育てられる

斎藤利三が城主を務めていた丹波国黒井城(兵庫県丹波市)で生まれた福。
黒井城主の娘として幼少期を過ごし、何不自由ない生活を送っていました。

ところが、天正10年(1582年)の本能寺の変の後に勃発した山崎の戦いで人生が激変。
明智光秀が豊臣秀吉に討たれると、斎藤利三は捕らえられ処刑されてしまいます。

居場所を失った福は美濃にある母方の実家・稲葉家に身を寄せ、遠戚にあたる三条西公国に育てられました。

三条西公国は公卿・三条西実枝(さんじょうにしさねき)の次男。
三条西公国のもとで育った福は書道、歌道、香道などの教養を身につけました。

稲葉正成と結婚する

やがて福は伯父・稲葉重通の養女となり、小早川秀秋家臣・稲葉正成と結婚します。

稲葉正成は稲葉重通の娘と結婚し、婿養子となっていましたが、妻に先立たれていました。
つまり、福にとっては初婚、稲葉正成にとっては再婚でした。

慶長2年(1597年)、福は稲葉正成にとって次男にあたる稲葉正勝を出産。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、徳川家康と内通していた稲葉正成は、

西軍から東軍に寝返るべき。

と進言し、小早川秀秋を東軍に寝返らせました。
小早川秀秋が東軍に寝返ったことにより、徳川家康は長年対立してきた石田三成に勝利。

功績を称えられた小早川秀秋は岡山城主となり、稲葉正成は家老となりました。

竹千代(後の徳川家光)の乳母となる

ところが、やがて稲葉正成は小早川秀秋と対立。
稲葉正成は小早川秀秋のもとを去り、福の実家のある美濃に身を寄せました。

そして、職を探しましたが、仕事になかなかありません。
稲葉正成は自暴自棄になって酒浸りの生活を送るようになりました。

この頃、福は偶然「乳母募集」の看板をみつけます。

徳川家康の三男である江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠と浅井長政の三女・江。
二人の間に長男・竹千代(後の徳川家光)が生まれ、幕府は竹千代の乳母を探していたんです。

おゆう
おゆう

江戸幕府が乳母に求めた条件は高い家柄と教養。

慶長8年(1603年)、稲葉正成にとって三男にあたる稲葉正利を出産し、子育てには自信をもっていた福は乳母に志願します。

① 斎藤利三と稲葉良通の娘の間に誕生
② 三条西公国のもとで成長
③ 関ヶ原の戦いの功労者である稲葉正成と結婚
していた福は、慶長9年(1604年)、竹千代の乳母に任命されました。

親子で竹千代に仕える

乳母に任命された福は稲葉正成と離縁し、江戸に移りました。

当時、福が産んだ稲葉正勝は7歳。
小姓に適した年齢だったため、福は乳母として、稲葉正勝は小姓として、竹千代に仕えました。

徳川家康と内密に面会する

その翌々年の慶長11年(1606年)、徳川秀忠と江は次男・国松(後の徳川忠長)を授かります。
竹千代を自らの手で育てられない江は国松を可愛がり、徳川秀忠も江と同じように国松を溺愛しました。

何故、徳川秀忠と江は国松を可愛がるのか。
福はその理由が自らの出自に関係していると考えていました。

紹介したように、福の父・斎藤利三は明智光秀の家臣。
明智光秀が討った織田信長は江にとって伯父にあたります。

「謀反人の娘に大事な竹千代を養育する資格はない」と思われているのではないかと心配していたんです。

福は竹千代に申し訳ない気持ちを抱きながらも、竹千代を懸命に励まし育てました。

でも、事態は深刻になるばかり。

やがて、「第3代将軍となるのは、(竹千代ではなく)国松ではないか」という噂が飛び交うように。
徳川家臣は国松ばかり訪ねました。

ふさぎ込み思いつめた竹千代は12歳で自殺を図ります。

福は竹千代に思いとどまるよう説得し、「伊勢参りをする」と嘘をついて、駿府に向かいました。

徳川家康に面会した福は10年の間に江戸城で起きた出来事を包み隠さず話しました。
福の話を聞いた徳川家康は下がるよう命じただけで、何も言いませんでした。

徳川家康が国松をけん制する

・徳川家康の機嫌を損ねてしまったのではないか
・出過ぎた真似をしてしまったのではないか
と心配しながら、福は江戸に帰りました。

その翌月、徳川家康が突然江戸城を訪れました。

福は乳母を解任されるのではないかと思っていました。
でも、竹千代、国松に対面した徳川家康は「竹千代殿」、「国松」と呼び方を変えて接しました。

また、竹千代を差し置いて徳川家康のもとに向かおうとした国松に対し、

成人した後には、竹千代殿に仕えるのだから。

と言って制しました。

今川義元や織田信長をはじめ、多くの戦国武将が兄弟で家督を争い、一族を分裂させてきました。
同じ過ちを犯してはならないと、徳川家康は肝に銘じてきたんですね。

大奥総取締役となる

この半年後の元和2年(1616年)4月、徳川家康はこの世を去りました。
元和6年(1620年)、17歳となった竹千代は徳川家康から一文字頂戴し、徳川家光と名前を改めました。

その3年後の元和9年(1623年)、徳川秀忠は将軍職を辞し、徳川家光は江戸幕府第3代将軍に就任しました。

将軍を立派に育て上げた福は大奥総取締役として、徳川家の妻や娘、侍女達を束ねます。
福は乳母将軍と呼ばれ、徳川家光を引き続き支えました。

① 徳川家光の小姓を務めていた稲葉正勝は相模国小田原藩初代藩主
② 稲葉正勝の甥・堀田正盛は下総佐倉藩初代藩主
③ 福の元夫・稲葉正成は下野国真岡藩初代藩主
になりました。

春日局と名乗る

寛永6年(1629年)、徳川家光が患った疱瘡の治癒を祈願して、福は伊勢神宮に参拝しました。

その後、その足で上洛して、御所へ昇殿しようとしましたが、福は徳川家光の乳母。
福の身分は御所に昇殿するにはふさわしくありませんでした。

そこで、福は育ての親・三条西公国の長男・三条西実条と猶妹の縁組をします。
そして、公卿・三条西家の娘となりました。

10月10日、三条西藤原福子として、福は後水尾天皇、中宮和子に拝謁。
福は従三位の位階と「春日局」の名を贈られ、以降、春日局と名乗るようになりました。

春日局(福)の死因は?

寛永20年(1643年)、春日局は65歳で亡くなりました。
春日局の死因は判っていませんが、晩年に病を患っても薬を飲まなかったといわれています。

紹介したように、徳川家光は疱瘡を患っていました。
この時から、春日局は徳川家光が治癒するよう祈願して、薬を断っていたんです。

春日局が長年にわたって薬を断っていると知った徳川家光は、病を患った春日局のもとに慌てて駆けつけ、自ら服薬させました。

このエピソードから、
① もっと早くに服薬していたら春日局は長生きしていた
② 春日局は病死した
と考えるのが妥当ではないでしょうか。

徳川家康との関係は?

一介の乳母が徳川家康に面会するなんて、通常であれば許されません。
でも、春日局は徳川家康に面会することができました。

その理由は徳川家康が春日局に特別な感情を抱いていたからだと思います。

紹介したように、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利できたのは、春日局の元夫・稲葉正成が小早川秀秋に寝返りを働きかけたから。

稲葉正成の働きがあったからこそ、徳川家康は江戸幕府を開くことができました。

徳川家康にとって、稲葉正成は命の恩人といっても過言ではありません。
稲葉正成に恩を感じていた徳川家康は、稲葉正成の元妻・春日局を厚く信頼していたのではないでしょうか。

まとめ:徳川家光が将軍になれたのは春日局のおかげ!

徳川家光竹千代)の乳母春日局)の生涯と死因徳川家康との関係を紹介しました。

竹千代を立派な第3代将軍・徳川家光に育て上げ、稲葉家を再興させた春日局。
危険を顧みず、徳川家康に面会を求めた春日局は、今でいう肝っ玉母さんだったのではないでしょうか。

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