北朝と戦い続け、朝敵とみなされていた楠木正成。
楠木正成の名誉を回復したのは、子孫・大饗正虎でした。
大饗正虎の生涯と楠木正成の名誉を回復したエピソードを紹介します。
大饗正虎ってどんな人?
楠木正成が湊川の戦いで自害してから184年後の永正17年(1520年)。
後に楠木姓を名乗る大饗正虎は備前国で誕生しました。
大饗正虎は書家・飯尾常房の弟子から書を学び、世尊寺流の当代一流の書家となります。
大饗正虎が優れた文才の持ち主だという噂は瞬く間に広がりました。
そして、天文5年(1536年)、室町幕府第13代将軍。足利義輝に仕え、右筆を務めました。
戦国時代に入ると、署名・花押のみを行うのが一般的となります。
ただ、戦時に文書を発行する仕事も担っていたため、戦に同行するようになりました。
その後、松永久秀や織田信長に仕えます。
天正3年(1575年)には、松井友閑と共に佐久間信盛の監督官を務めました。
天正9年(1581年)2月に行われた京都御馬揃えでは、坊主衆の一員として参加します。
周辺大名をけん制、朝廷を威圧するために開かれました。
本能寺の変の後、大饗正虎は豊臣秀吉に仕えます。
文禄元年(1592年)から行われた朝鮮出兵では、名護屋城で石田三成の父・石田正継と共に記帳を務めました。
その後、楠木正成・正行も務めた河内守に任命されました。
文禄5年(1596年)1月、76歳でこの世を去りました。
楠木正成の名誉を回復したって本当?
大饗正虎の父は大饗隆成。
大饗隆成は河内大饗氏の大饗正盛の子孫であり、大饗正盛は楠木正成のひ孫にあたります。
つまり、大饗正虎は楠木正成の子孫なんです。
大饗正虎は先祖である楠木正成を誇りに思っていました。
でも、北朝と対立し続けてきた南朝勢・楠木正成は朝敵とみなされていました。
特に、北朝と組んでいた足利氏から疎まれ、楠木姓を名乗ることができませんでした。
大饗正虎は主君・松永久秀にその悩みを打ち明けます。
すると、松永久秀は「大饗正虎が楠木氏の赦免を願っている」と、正親町天皇に告げます。
河内国は楠木氏の本拠地。
大饗正虎に協力することで、河内国の土豪を懐柔しようとしたのかもしれません。
かつての主君・足利義輝も大饗正虎に協力。
永禄2年(1559年)11月、正親町天皇は楠木正成・正行を赦免する綸旨を出しました。
以降、大饗正虎は楠木姓を名乗りました。
まとめ:かつての敵に頭を下げて、名誉を回復!
大饗正虎の生涯と楠木正成の名誉を回復したエピソードを紹介しました。
先祖が対立してきた
① 足利氏に仕える
② 北朝の正親町天皇に赦免を願い出る
ことで、大饗正虎は楠木氏の名誉を回復しました。
大饗正虎は立ち回りが上手だったんですね。
楠木正成は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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