豊臣秀長の初陣・鵜沼城の戦いの経過と結果、その後

永禄5年(1562年)に22歳で豊臣秀吉に連れられ、清洲にやってきた弟・豊臣秀長。
鵜沼城の戦いは豊臣秀長の初陣だといわれています。

豊臣秀長初陣鵜沼城の戦い経過結果その後を紹介します。

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豊臣秀長の初陣・鵜沼城の戦いとは?

鵜沼城の戦いとは、永禄7年(1564年)4月に、
① 豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)
② 斎藤家家臣・大沢基康
の間で行われた戦いを指します。

大沢基康の妻は斎藤道三の娘と伝わっています。
ただ、「寛永諸家系図伝」に記述がなく、史実の可能性は低いと考えられています。

紹介したように、鵜沼城の戦いは豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の初陣だといわれています。

戦国武将は何歳で初陣を迎えるのが一般的だったのでしょうか。

織田信長は14歳、徳川家康は17歳で初陣を迎えました。
元服後の10代前半で初陣を迎えることが多かったようです。

もちろん、時代や地域によって事情が異なるため、初陣を迎える年齢には個人差があります。
例えば、毛利元就は20歳、長宗我部元親は22歳で初陣を迎えました。

鵜沼城の戦いが起きた時、豊臣秀長は既に24歳。
他の戦国武将に比べて、豊臣秀長の初陣は遅過ぎると言っても過言ではありませんでした。

鵜沼城の戦いの経過

織田信長は当時美濃攻略の真っ最中。
豊臣秀吉に鵜沼城(現在の岐阜県各務原市)、伊木山城(同左)の攻略を命じます。

豊臣秀吉が情報戦を展開

豊臣秀吉がまず取りかかったのは鵜沼城主・大沢基康の説得でした。

鵜沼城は木曽川を挟んで犬山城の対岸にある、大きな岩山に築かれた天然の要塞をもつ城。
損害を出さずに攻略するには、説得して降伏、開城させるのがベストです。

豊臣秀吉は大沢基康の息子と知り合いである坪内利定に接触。

豊臣家家紋
豊臣秀吉

坪内利定は尾張と美濃の境にある松倉城の城主。
大沢基康をはじめ、蜂須賀正勝や前野長康などの国衆をまとめ上げていました。

織田信長に仕えていた坪内利定は「優勢なのは織田家である」と伝えました。

大沢基康の友人・前野長康が鵜沼城を攻撃

大沢基康が説得に応じなかったため、豊臣秀吉は大沢基康の友人・前野長康に鵜沼城を攻撃させます。
その後、豊臣秀吉は再度説得にあたりました。

鵜沼城の戦いの結果

命だけでも助かりたい大沢基康は豊臣秀吉の説得に応じ、鵜沼城を開城しました。
豊臣秀吉は弟・豊臣秀長を鵜沼城に置いて、尾張に戻ります。

その途中、和議を結んだことを知らない斎藤家の武将・長井隼人が300人の兵と共に豊臣秀吉を奇襲。
豊臣秀吉は竹やぶに逃げ込みましたが追いつかれ、長井軍に取り囲まれてしまいました。

そこへ駆けつけたのが、豊臣秀長率いる兵150人。
豊臣秀吉・秀長兄弟の軍に挟み撃ちにされた長井軍は慌てて逃げました。

この時、豊臣秀長は初めて武器を持ったといわれています。

鵜沼城を明け渡した大沢基康。
大沢基康は秀吉と共に、織田信長のいる清洲へ向かいます。

ところが、織田信長は大沢基康を信じられず、豊臣秀吉に大沢基康を道中で殺害するように命じました。

豊臣家家紋
豊臣秀吉

大沢基康を殺せば、
① 鵜沼城にいる弟・豊臣秀長
② 一緒に説得にあたった前野長康
が窮地に立たされます。

そこで、豊臣秀吉は織田信長の重臣・丹羽長秀を通じて織田信長を説得し、大沢基康を逃がしました。

織田信長の死後、大沢基康は豊臣秀吉・秀次に仕え、2600石を知行しました。
文禄4年(1595年)に豊臣秀次が自害すると流浪し、76歳で亡くなりました。

鵜沼城のその後

鵜沼城は犬山城主・池田恒興に与えられます。
後に、池田恒興が国替えになると、徳川家康の家臣・中川定成が犬山城と鵜沼城を支配しました。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが勃発。

豊臣軍の池田恒興は中川定成の留守中に鵜沼城に入ります。
そして、鵜沼城を足掛かりに、犬山城を攻略しました。

豊臣家家紋
豊臣秀吉

鵜沼城が地理的・軍事的に非常に重要な城だったことがよくわかります。

後に鵜沼城は廃城になりましたが、昭和2年(1927年)に政治家・三輪市太郎が城山に別荘を建てます。
昭和5年(1930年)には、犬山の料理旅館が別荘を借りて、別館として使用しました。

昭和20年(1945年)の太平洋戦争後はアメリカ軍に接収され、軍隊専用のクラブとして使用されました。
アメリカ軍から返還されると、この建物は城山荘という旅館・レストランになります。

ところが、昭和47年(1972年)12月に火災が起きて閉館。
現在は建物が撤去され、2002年から整備して公園化する計画が進められているのだとか。

紹介したように、鵜沼城は木曽川を挟んで犬山城の対岸にありました。
現在はツインブリッジの脇にあります。

山頂には大沢一族の碑があるといわれていますが、山の麓は私有地で立入禁止になっています。

まとめ:鵜沼城の戦いは豊臣兄弟が初めて力を合わせた戦い!

豊臣秀長初陣鵜沼城の戦い経過結果その後を紹介しました。

豊臣秀長の初陣である鵜沼城の戦い。
豊臣秀吉の知略と豊臣秀長の初の武勲が重なる、兄弟でつかみ取った勝利でした。

織田信長にとって、犬山城の対岸にあった鵜沼城は絶対に押さえておきたい城でした。
鵜沼城の戦いで勝利した豊臣兄弟に、織田信長も大注目だったのではないでしょうか。

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