関ヶ原の戦いの西軍の裏切り者と理由、その後を一覧に

7万4000人の東軍と8万人の西軍が戦った関ヶ原の戦い。
大規模な戦いにも関わらず、たった6時間で決着がつきました。

東軍を勝利に導いたのは、西軍の裏切り者だといわれています。

関ヶ原の戦い西軍裏切り者理由その後を紹介します。

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小早川秀秋

小早川秀秋は豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の兄・木下家定の五男。
つまり、豊臣秀吉の甥にあたります。

子供をなかなか授からなかった豊臣秀吉は、小早川秀秋を養子として迎えました。
小早川秀秋は高台院に育てられ、また、豊臣秀吉から可愛がられ、跡継ぎ候補に名を連ねました。

ところが、豊臣秀吉に三男・豊臣秀頼が誕生すると、小早川秀秋は用済みに。

毛利元就の三男・小早川隆景の養子に出されてしまいます。
豊臣秀吉から厄介払いのような扱いを受けたんです。

おゆう
おゆう

関ヶ原の戦いの前、東軍、西軍それぞれから、援軍を要請する書状が届きました。

当初、小早川秀秋は西軍に味方をする姿勢を示していました。
小早川家に養子に出されたとはいえ、豊臣秀吉に恩義を感じていたからです。

でも、小早川秀秋が最終的に選んだのは東軍。
厄介払いされたことを思い返すうちに、恩義が憎しみに変わったのかもしれません。

小早川秀秋のこの裏切りは西軍の有力武将が次々と東軍に寝返るきっかけとなりました。

関ヶ原の戦い終結後、小早川秀秋は岡山55万石に加増・移封されます。

ところが、わずか2年後、小早川秀秋は21歳の若さで急死しました。

奥平貞治

奥平貞治は徳川家康の長女・亀姫の夫である奥平信昌の叔父にあたります。

紹介したように、小早川秀秋は当初西軍に味方をする姿勢を示していましたが、関ヶ原の戦い本戦では東軍を選びました。

ただ、小早川秀秋の真意を読み取れなかったため、徳川家康は奥平貞治を軍監として小早川秀秋に送ります。

関ヶ原の戦い当日、奥平貞治は小早川秀秋に(東軍として)出陣するよう催促しました。
でも、小早川秀秋は戦いを傍観するだけで、兵を動かそうとしませんでした。

更に、小早川秀秋が東軍と内通していることを知った家臣・松野重元は小早川秀秋に失望し、戦線を離脱。
奥平貞治は松野重元の部隊を急きょ率いることとなりました。

奥平貞治は松野隊と共に大谷吉継軍に襲いかかります。
苦しい戦いが続くも、最終的には大谷軍を撃破しました。

奥平貞治は東軍の勝利に大きく貢献しましたが、戦いの最中に致命傷を負い、この世を去りました。
徳川家康は関ヶ原の戦いにおける奥平貞治の活躍を高く評価したといわれています。

平岡頼勝

平岡頼勝は当初豊臣秀吉の家臣でしたが、小早川秀秋が小早川家の養子となった後、小早川秀秋付の家老になりました。

平岡頼勝の妻は黒田長政の従兄妹。
東軍である黒田長政と内通し、稲葉正成と共に小早川秀秋に東軍に寝返るよう勧めました。

関ヶ原の戦い終結後も小早川秀秋に仕え続けた平岡頼勝。
小早川秀秋の死後は徳川家康に仕え、美濃徳野に1万石の所領を与えられました。

稲葉正成

稲葉正成は徳川家光の乳母として知られる春日局の夫です。

小早川秀秋に仕えていた稲葉正成は平岡頼勝と共に、小早川秀秋に東軍に寝返るよう勧めました。

関ヶ原の戦い終結後、稲葉正成は徳川家康に仕えます。
美濃十七条に1万石の領地を与えられた後、下野真岡2万石に封じられました。

脇坂安治

脇坂安治は賤ヶ岳の七本槍の一人。
会津征伐では、徳川家康に味方をする姿勢を示していました。

ところが、徳川家康と合流するべく関東に向かう途中、脇坂安治は石田三成に進路を遮られてしまいます。
身を守るため、脇坂安治は1000人の兵を率いて、仕方なく西軍に味方をしました。

関ヶ原の戦いで石田三成から脇坂安治が与えられた役目は、東軍と内通しているという噂のあった小早川秀秋の監視でした。

小早川秀秋が西軍を裏切ると、脇阪安治はチャンスを逃さず、奥平貞治と共に大谷軍を攻撃します。
また、石田三成の居城である佐和山城攻略にも参戦しました。

小川祐忠

小川祐忠は脇坂安治と共に東軍に寝返りました。

ところが、息子・小川祐滋は石田三成と親交が深く、東軍への寝返りを拒否。
なんとか説得し、小川祐忠・祐滋親子は東軍に寝返ったものの、関ヶ原の戦い終結後、内通への褒美はありませんでした。

それどころか、小川祐滋と石田三成が親しかったことを隠していたとして改易され、わずか一年後にこの世を去りました。

赤座直保

赤座直保は脇坂安治や小川祐忠と共に東軍に寝返った武将の一人。
ところが、関ヶ原の戦い終結後、褒美を与えられるどころか、所領を没収されてしまいました。

赤座直保はそもそも関ヶ原の戦いに参戦していなかったともいわれています。

朽木元綱

朽木元綱は脇坂安治や小川祐忠、赤座直保と共に東軍に寝返った武将の一人です。
にも関わらず、関ヶ原の戦い終結後、2万石から9550石に減封されてしまいました。

朽木元綱はそもそも関ヶ原の戦いに参戦していなかったともいわれています。

吉川広家

吉川広家の主君は西軍の総大将・毛利輝元です。

毛利輝元の家臣である吉川広家は、当然西軍として参戦することが求められました。
でも、吉川広家は東軍が勝利すると確信していました。

そこで、
・主君・毛利輝元
・東軍への寝返りを反対する安国寺恵瓊
に内緒で、黒田長政を通じて、徳川家康に内通します。

東軍に寝返り、「勝利した暁には、毛利領を安堵する」という密約を取り付けることに成功した吉川広家。

関ヶ原の戦い本戦では、西軍として参加しているように見せかけ、毛利秀元軍や長宗我部盛親軍に出陣命令を出さず、西軍の動きを抑えました。

この時、「これから弁当を食べるから、まだ出陣してはならない」と言ったことから、「宰相殿の空弁当」という故事が生まれました。

関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わり、密約どおり、吉川広家は毛利領を安堵されると思っていました。

ところが、逆に、毛利領が改易されるという噂を耳にします。

吉川広家は、
・約束が違う
・毛利家を残す代わりに、自分自身にも毛利家と同じ罰を与えてほしい
という書状を送り、毛利領は減封で済みました。

まとめ:武将の複雑な想いが東軍を勝利に導いた!

関ヶ原の戦い西軍裏切り者理由その後を紹介しました。

・縁故で寝返った
・東軍の勝利を確信して寝返った
など、武将の事情はさまざま。

武将の複雑な想いが東軍を勝利に導いたのではないでしょうか。

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