二俣城、田中城で徳川家康と戦った依田信蕃の最期

北条軍、上杉軍、徳川軍の三つ巴の戦いとなった天正壬午の乱。
徳川家康を救ったのは、徳川家康と3度も戦った依田信蕃でした。

二俣城田中城徳川家康と戦った依田信蕃最期を紹介します。

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二俣城、田中城で徳川家康と戦った依田信蕃

依田信蕃は天文17年(1548年)生まれで、芦田信守の長男として誕生しました。

芦田信守が武田信玄に仕えていたため、依田信蕃は幼少期から武田家に仕えることとなりました。

① 永禄11年(1568年)に始まる駿河侵攻
② 元亀3年(1572年)12月に勃発した三方ヶ原の戦い
などに参戦し、徳川家康を度々苦しめました。

徳川家康から二俣城を守り抜く

武田信玄の死後、跡を継いだ武田勝頼は依田信蕃を二俣城主に任命します。

元々二俣城は徳川氏の支配下にありました。
元亀3年(1572年)10月、武田信玄の命令を受けた武田勝頼が二俣城を攻略。

以降、二俣城は武田氏の支配下に置かれました。

徳川氏の支配する
① 浜松城
② 掛川城
③ 高天神城
の中間に位置する二俣城。

徳川家康にとって、二俣城はなんとしても取り返したい城の一つでした。

武田信玄の死から2ヶ月が経った元亀4年(1573年)6月、徳川家康は二俣城を攻撃します。
依田信蕃は応戦して二俣城を守り抜きました。

この一年後、武田勝頼は高天神城を攻略しました。

徳川家康に二俣城を明け渡す

ところが、天正3年(1575年)5月に勃発した長篠の戦いで、武田軍が織田・徳川連合軍に大敗。
武田氏は一転して劣勢になります。

その翌月、徳川家康は二俣城の隣に位置する鳥羽山などに付城を築き、二俣城を包囲。

徳川家康は2年前に二俣城を攻略できなかったことから、積極的に攻撃せず、兵糧攻めをすることにしました。

依田信蕃は籠城戦に持ち込み、半年間耐え抜きましたが、
① 武田勝頼から甲斐国に引き上げるよう命令があった
② 徳川家康から開城するよう要請があった
ため、城兵全員の命を助けることを条件に、開城を決断しました。

約束の開城の日が訪れ、依田信蕃は2年半にわたって城主を務めた二俣城を去ることになりました。

ところが、当日になって「開城を延期してほしい」と徳川家康に申し出ます。
未練がましい男だと呆れながらも、徳川家康は理由を尋ねました。

すると、依田信蕃は、

今日は雨が降っています。
雨の日に蓑や笠を付けて退去しては見苦しい…

と答えました。

そして、晴れた日に退去させてほしいと願い出ました。

雨が止んだのはその3日後。
依田信蕃は城兵を率いて、40km離れた高天神城に向かいました。

後に二俣城主を任される徳川家臣・大久保忠世が城内に入ると、城内は整理整頓されていました。

徳川家康に田中城を明け渡す

天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康による甲州征伐が始まります。

天正9年(1581年)3月、第二次高天神城の戦いで、徳川家康は高天神城を奪還。

高天神城を見捨てた武田勝頼の求心力は低下し、武田家臣は次々と離反します。

武田軍が弱体化している今こそ好機。
そう考えた徳川家康は、依田信蕃が城将を務める田中城(静岡県藤枝市)を攻撃します。

依田信蕃と徳川家康は二度目の戦いを迎えました。

簡単に攻略できると思っていましたが、徳川家康は田中城をなかなか攻略できません。

攻めあぐねた徳川家康は開城するよう要請しましたが、依田信蕃は応じませんでした。

依田信蕃が徳川家康と戦っている間に、主君・武田勝頼は天目山の戦いで自害します。

主君を失った依田信蕃が田中城を守り抜く必要はありません。

武田勝頼の従兄弟・穴山梅雪は事情を話し、改めて開城を促すと、依田信蕃はようやく開城しました。

徳川家康の誘いを断る

依田信蕃の忠義に感心した徳川家康は、依田信蕃を徳川家に誘います。

ところが、依田信蕃は、

殿(武田勝頼)の安否が判っていないので、徳川家臣になることはできません

と言って断りました。

依田信蕃は出身の春日城(長野県佐久市)に帰りました。

徳川家康に仕える

その後、織田信長による武田遺臣の追討が始まります。

織田・徳川連合軍に最後まで抵抗した依田信蕃は、追討リストの一番上に名前が挙がっていました。

徳川家康は春日城に使者を送り、依田信蕃に事情を話します。

依田信蕃は徳川家康の誘いに応じ、遠江国に身を隠しました。

依田信蕃の最期

天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発。

織田氏が手に入れたばかりの旧武田領は混乱に陥ります。

そして、旧武田領を巡って、天正壬午の乱が起こりました。

天正壬午の乱は、
① 兵5万3000人の北条軍
② 兵2万人の上杉軍
③ 兵1万人の徳川軍
の三つ巴の戦い。

戦力が圧倒的に不利な徳川軍は、圧倒的に優位な北条軍と戦うことになりました。

どう見ても、徳川軍の負け戦。
そんなピンチに立たされた徳川軍を救ったのが、徳川家康に命を助けられた依田信蕃でした。

依田信蕃は北条軍の兵の数に注目し、兵糧攻めを行います。

蓼科山の山中に身を潜めて、北条軍に物資を届ける部隊を次々と攻撃。
北条軍は食糧・武器不足に陥り、士気が低下しました。

北条軍は負けを認め、徳川氏にとって有利な条件で和睦が進められました。
和睦が成立すると、北条軍は関東に帰ります。

信濃国は徳川氏の支配下に置かれました。
でも、国衆の中には、徳川家康に従おうとしない者もいました。

依田信蕃は国衆を徳川家康に臣従させようと、国衆と戦います。

そして、徳川家康に抵抗して籠城する岩尾城主・大井行吉と戦い、依田信蕃は討死。
36歳の若さでこの世を去りました。

まとめ:最後は徳川家康に忠義を貫いた依田信蕃

二俣城田中城徳川家康と戦った依田信蕃最期を紹介しました。

① 元亀4年(1573年)
② 天正3年(1575年)
③ 天正9年(1581年)
の3度にわたって、徳川家康と戦った依田信蕃。

依田信蕃が最後に忠義を尽くした主君は徳川家康でした。

依田信蕃が徳川家康に仕えた期間はたったの一年。
依田信蕃が長生きしていたら、徳川家康のもとで大きな活躍を見せていたのではないでしょうか。

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