大河ドラマ「どうする家康」で中村勘九郎さんが演じる茶屋四郎次郎。
インパクトの大きい名前ですが、茶屋四郎次郎とはどのような人物なのでしょうか。
茶屋四郎次郎の苗字、初代当主・清延が徳川家康の伊賀越えで見せた活躍を紹介します。
茶屋四郎次郎の苗字は中島!
茶屋四郎次郎という字面を見て、茶屋が苗字で、四郎次郎が名前かなと思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。

実は、茶屋四郎次郎は通称で、苗字が含まれていなければ、名前でもありません。
例えば、初代当主・清延は「茶屋四郎次郎 清延」と名乗り、2代目当主・清忠は「茶屋四郎次郎 清忠」と名乗りました。


当主は代々、茶屋四郎次郎を襲名したんですね。
では、清延や清忠、その子孫の苗字は何かというと中島。
信濃国の守護大名・小笠原長時に仕えていた中島宗延の息子・中島明延は戦で負傷したのをきっかけに武士をやめ、京都に移って呉服商を始めました。
室町幕府第13代将軍・足利義輝は中島明延の屋敷に立ち寄り、お茶を飲んだことから、「茶屋」という屋号が誕生しました。
なお、四郎次郎とは、明延が四男だったこと、その息子・清延が次男だったことに由来しています。
伊賀越えで徳川家康を救った初代当主・清延
初代当主・茶屋四郎次郎清延は天文14年(1545年)生まれ。
父・明延の跡を継いで呉服商を営んでいましたが、元亀3年(1573年)に勃発した三方ヶ原の戦いでは徳川家康に仕え、武士としても活躍しました。



清延の祖父・宗延は武士。
武氏の血を引いていた清延は武士として一旗揚げたかったのかもしれません。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起きた時、徳川家康は堺に滞在していました。
織田信長を討った明智光秀が徳川家康の命を狙っているという情報を入手した清延は、徳川家康のもとに早馬を走らせて状況を報告。
伊賀を抜けて、岡崎城に帰ると決めた徳川家康を山賊から守るべく、伊賀国の知り合いに小判を渡して協力を要請し、徳川家康の伊賀越えの成功に貢献しました。
徳川家康から厚く信頼を寄せられた清延は、武具や防具を調達したり、江州代官として年貢を徴収したりしました。
その後、代官を辞退し、清延は徳川家の呉服御用商人となりました。
また、清延は徳川家康が京都に滞在する際に利用する旅宿も務めました。
慶長元年(1596年)9月、清延は52歳で死去。
茶屋四郎次郎は代々情報通だったのかもしれませんね。
まとめ
茶屋四郎次郎の苗字、初代当主・清延が徳川家康の伊賀越えで見せた活躍を紹介しました。
室町幕府第13代将軍・足利義輝の治世に誕生した茶屋四郎次郎。
徳川家康から厚く信頼された茶屋四郎次郎は呉服御用商人、旅宿として活躍しました。
茶屋四郎次郎の子孫は現在、ある大学の総長を務めているそうです。
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