織田信長はなぜ足利義昭と上洛した?管領や副将軍を断った理由

各国の大名に御内書を送り、上洛の協力を呼びかけた足利義昭。

織田信長は足利義昭の呼びかけに応じ、上洛を実現させます。
そして、足利義昭のしきたりを破った恩賞を断りました。

織田信長足利義昭上洛した目的
管領副将軍断った理由
を紹介します。

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織田信長はなぜ足利義昭と上洛した?

永禄11年(1568年)9月、足利義昭は織田信長に奉じられて上洛を果たしました。

何故、織田信長は足利義昭と上洛したのでしょうか。
織田信長の目的は3つあります。

自身(織田信長)の力を誇示するため

第3代将軍・足利義満の治世に最も栄えた室町幕府。
第8代将軍・足利義政の治世で応仁の乱が起きると、幕府の権威は失墜。

幕府が衰退の一途をたどる一方で、各国の大名は力をつけていきます。

第13代将軍・足利義輝の治世では、三好氏が畿内で経済・軍事力をもっていました。
足利義輝は三好氏に実権を握られ、三好長慶によって近江に追放されます。

その後和解するも、足利義輝は三好氏の傀儡になることを嫌がり、自ら政務を行いました。
結果、永禄8年(1565年)5月19日、足利義輝は三好義継、三好三人衆に殺されてしまいました。

三好三人衆とは、三好義継の後見役・三好長逸、三好宗渭、岩成友通を指します。

足利義輝を殺した三好氏は義輝の従兄弟・義栄を擁立し、再び傀儡政権を築こうとします。

織田家家紋
織田信長

すっかり衰退し、権威を失った室町幕府。
足利義昭の上洛に協力し、幕府を再興すれば、全国に織田信長の名が知れ渡ります。

三好氏を超える力を誇示することは、今後の戦、統治を有利するために必要でした。

名誉を回復するため

永禄8年(1565年)7月28日、幽閉されていた足利義昭は興福寺を脱出。
各国の大名に御内書を送り、上洛の協力を呼びかけました。

織田信長はいち早く足利義昭の上洛に協力する姿勢を示しました。

ところが、行く手を阻む斎藤龍興に戦で敗北。
面目を失った織田信長は上洛を実現させ、名誉を回復しなければいけませんでした。

軍事行動を正当化するため

尾張から北は美濃、西は近江へと領地を次々拡大していく織田信長。
足利義昭の上洛に協力するためという大義名分を得れば、戦いを正当化することができます。

また、幕府が衰退したとはいえ、将軍が御内書を出せば従う大名もまだまだいます。
ここで足利義昭に恩を売っておくことも、今後の戦、統治を有利するために必要でした。

織田信長が管領や副将軍を断った理由

織田信長の協力を得て上洛した足利義昭。
足利義昭は織田信長を「御父」と呼んで大喜びします。

足利義昭
足利義昭

織田信長に感謝の気持ちを伝えたい。
そして、これからもそばで支えてほしい。

足利義昭は織田信長に管領や副将軍になるよう求めました。

管領と副将軍の違いは何でしょうか。

管領は将軍の補佐役で、幕臣の筆頭。
将軍に次ぐ立場で、役職としては最高の位でした。

管領と副将軍は同じようなものですが、違いは任免権にあり、
☑ 管領の任免権は将軍
☑ 副将軍の任免権は朝廷
がもっていました。

足利義昭は将軍に就任した月に管領就任を要請し、朝廷は永禄12年(1569年)3月に副将軍就任を打診します。

管領は細川、畠山、斯波の御三家から選んでいました。

足利義昭
足利義昭

織田家は尾張の守護・斯波家の家臣筋。
しきたりを破って、織田信長に管領就任を要請したんです。

ところが、織田信長は管領就任の要請を断ります。
更に、朝廷にも返答せず、暗に断りました。

何故、織田信長は管領や副将軍を断ったのでしょうか。

京で家臣や兵を養いたくなかったから

将軍の補佐役である管領は御所の近くに住まなければいけません。
つまり、織田信長が管領になったら、拠点である美濃や尾張に帰れなかったんです。

だからといって、拠点を京に移すとなると、美濃や尾張から家臣や兵を連れてきて、京で養う必要があります。
織田信長はこのようなことに労力とお金をかけたくありませんでした。

領地を奪われることを恐れたから

永正5年(1508年)6月、周防の大内義興は足利義稙(当時は足利義尹)と共に上洛。
翌月、足利義稙は将軍に就任し、大内義興は管領になりました。

織田家家紋
織田信長

織田信長と足利義昭が上洛を果たした60年前に同じようなことが起きていたんです。

大内義興は京を10年間離れられず、周防をはじめとする7ヶ国が尼子氏に攻められました。

織田信長の治める美濃や尾張は、北に越前の朝倉義景、東に甲斐の武田信玄がいます。
織田信長は近隣の大名に領地を奪われることを恐れていました。

名ばかりの役職より、堺の支配権が欲しかったから

足利義昭と共に上洛した織田信長は全国の大名の注目の的。
武田信玄や上杉謙信、毛利輝元などから警戒されています。

織田家家紋
織田信長

そのような中、管領や副将軍に就任すれば、反感を買うこと間違いありません。

管領や副将軍を断り、堺の支配権を求めることで、
① 謙虚な姿勢を示す
② 鉄砲と火薬を得て戦に備える、利益を手にする
ほうが合理的でした。

まとめ:先を見据えて、織田信長は合理性を求めた!

織田信長足利義昭上洛した目的
管領副将軍断った理由
を紹介しました。

☑ 自身(織田信長)の力を誇示する
☑ 名誉を回復する
☑ 軍事行動を正当化する
ために、足利義昭と上洛した織田信長。

足利義昭から管領、副将軍になるように求められますが、リスクを考え、代わりに堺の支配権を求めました。
織田信長は将来を見据えて、合理性を求めたんですね。

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