尼子勝久と山中幸盛が挑んだ上月城の戦いの原因と経過、結果、与えた影響

中国攻略を目指す織田信長とそれを阻止する毛利氏。

両者の間で行われた戦いはたくさんありますが、上月城の戦いは特別。
尼子勝久と忠臣・山中幸盛の滅亡した尼子氏再興をかけた戦いでした。

上月城の戦い原因経過結果与えた影響を紹介します。

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上月城の戦いとは?

上月城の戦いは、
① 天正5年(1577年)に、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と毛利氏
② 天正6年(1578年)に、尼子勝久、山中幸盛、豊臣秀吉と毛利氏
の間で2回行われました。

こちらでは、第二次上月城の戦いについて紹介します。

上月城の戦いの原因

紹介したように、上月城の戦いには、
① 天正5年(1577年)の第一次上月城の戦い
② 天正6年(1578年)の第二次上月城の戦い
があります。

第二次上月城の戦いの原因は、第一次上月城の戦いで豊臣秀吉が上月城を陥落したことにあります。

武士
武士

これより前。

出雲守護代の尼子氏は山陰・山陽の8ヶ国(120万石)を支配していました。

永禄8年(1565年)、尼子氏と毛利氏の間で第二次月山富田城の戦いが勃発。
月山富田城の城主・尼子義久は敗北し、翌年の永禄9年(1566年)11月に開城します。

尼子義久は弟と共に捕まり、安芸の長田(広島県安芸高田市)の円明寺に幽閉されました。
これによって、大名としての尼子氏は滅亡しました。

大名として滅亡した尼子氏を再興しようと、尼子氏の家臣・山中幸盛が立ち上がります。

山中幸盛は出家していた尼子勝久を擁立。

永禄9年(1566年)から天正2年(1574年)にかけて、毛利氏と戦い続けました。

ところが、ほとんどの戦で毛利氏に敗北します。
そこで、毛利氏と敵対する織田信長を頼り、尼子氏を復活させるチャンスを狙うことにしました。

天正5年(1577年)、尼子勝久は豊臣秀吉が陥落した上月城の守備を任されました(第一次上月城の戦い)。

上月城の戦いの経過

天正6年(1578年)4月18日、毛利氏が総勢3万人の兵を率いて上月城に迫ります。

毛利家家紋
毛利家

上月城は規模の小さな城。
でも、播磨、美作、備前の3ヶ国の境目にあって押さえておきたい城でした。

対して、尼子氏の兵は3000人で、毛利氏の10分の1程度。

毛利軍は上月城を包囲し、
・法螺貝や太鼓を鳴らして眠れないようにする
・兵糧攻めを行う
などして、尼子軍の士気を喪失させました。

上月城が包囲されていると知った豊臣秀吉は援軍を派遣します。

毛利家家紋
毛利家

ただ、上月城の近くの姫路に駐留していた豊臣軍は1万人程度。
3万人の毛利軍にはとてもかないません。

更に、毛利軍は深い空堀や塀を巡らし、逆茂木を敷いて、豊臣軍が上月城に近づけないようにしました。

豊臣秀吉は織田信長に状況を報告し、援軍を要請します。
織田信長は長男・信忠を総大将として援軍を派遣しました。

でも、いつまでたっても、織田信忠軍は上月城に到着しません。
援軍の派遣先は上月城ではなく、上月城の東90km先にある三木城の支城でした。

織田信長にとって、この時の最重要拠点は三木城。

毛利氏によって一族を滅ぼされた尼子勝久が毛利氏に寝返ることはない。
織田信長はそう確信していました。

上月城の戦いの結果

織田信長は三木城の攻略を最優先にするよう、豊臣秀吉に命令。
逆らうことのできない豊臣秀吉は、

豊臣家家紋
豊臣秀吉

上月城を捨てて逃げるように!

と尼子勝久に伝えました。

ところが、尼子勝久はこれを無視し、徹底抗戦を選びます。

援軍が来ないと知った城兵は士気が低下。
夜にこっそり逃げ出す者もいて、城兵は300人程度にまで減っていました。

7月1日、耐えきれなくなった尼子軍は城兵の助命を条件に降伏。
2日後の3日に、尼子勝久、嫡男・尼子豊若丸、弟・氏久、通久は自害しました。

この時、尼子勝久は、

武士
尼子勝久

ほんの一瞬でも尼子氏を再興してくれてありがとう。

と言って、山中幸盛に感謝しました。

山中幸盛は一緒に切腹したいと申し出ます。
でも、尼子勝久は尼子氏再興の希望を託そうと、山中幸盛の申し出を許しませんでした。

城兵の助命を条件に降伏した尼子勝久。
ところが、山中幸盛は捕虜となり、毛利軍によって殺害されました。

尼子勝久と山中幸盛が目指した尼子氏再興はかないませんでした。

上月城の戦いが与えた影響

☑ 尼子氏の再興を目指した忠臣・山中幸盛
☑ 上月城を見捨てた織田信長、豊臣秀吉
山中幸盛の忠義心によって、織田信長と豊臣秀吉の無情がきわ立ちます。

自分達もいつか見捨てられるのではないか。
薄情な織田信長と豊臣秀吉に対する不信感が高まりました。

例えばその結果として…
天正6年(1578年)10月、荒木村重は織田信長を裏切り、有岡城の戦いが勃発しました。

まとめ:織田信長が上月城の戦いで得たものは何もない

上月城の戦い原因経過結果与えた影響を紹介しました。

上月城の守備を任された尼子勝久。

援軍が来ないと知っても、豊臣秀吉が城を捨て逃げるように言っても…
尼子勝久は弟や家臣・山中幸盛と一緒に城を守り続けました。

上月城の戦いで、織田信長は失うものはあっても、得られるものはなかったのではないでしょうか。
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