今川家と武田家で人質になった徳川家康の弟・松平康俊(久松勝俊)の死因

徳川家康の母・於大の方とその再婚相手・久松長家(俊勝)の間に誕生した松平康俊。

松平康俊は徳川家康の異父弟にあたりますが、徳川家康の政略に振り回される人生を送りました。

今川家と武田家で人質になった徳川家康の異父松平康俊久松勝俊)の生涯と死因を紹介します。

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今川家と武田家で人質になった徳川家康の弟・松平康俊(久松勝俊)

松平康俊は天文21年(1552年)生まれで、於大の方と久松長家(俊勝)の間に三男として誕生しました。

松平康俊の通称は源三郎といいます。
元服して久松勝俊と改名し、後に徳川家康から松平姓と諱の一文字を贈られ、松平康俊と改名しました。

久松長家の長男は前妻・水野氏との間に誕生した久松信俊、次男は於大の方との間に誕生した松平康元です。

実は、松平康俊は兄・松平康元と同じ天文21年(1552年)生まれ。

でも、次男、三男という生まれた順番の違いで、松平康俊の送った人生は松平康元の人生よりはるかに過酷なものとなりました。

今川家で人質になる

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれたことをきっかけに、徳川家康は今川家から独立しました。

でも、徳川家康は正室・築山殿、長男・信康、長女・亀姫を今川家に置いたままでした。

そこで、徳川家康は事実上今川家の人質となってしまった3人の救出に乗り出します。

徳川家康は今川家臣であり、今川氏真の親戚でもある、
① 鵜殿長照
② 鵜殿氏長
③ 鵜殿氏次
の親子3人を生け捕りにして、人質交換を交渉しようと考えました。

でも、鵜殿長照は討死し、生け捕りできたのは2人だけ。

3人を救出するには、人質が一人足りません。

そこで、徳川家康は生け捕りに成功した、
① 鵜殿氏長
② 鵜殿氏次
の2人に加えて、
③ 異父弟・松平康俊
を差し出し、家族を取り戻しました。

残念ながら、松平康俊が今川家でどのような生活を送ったのかは判っていません。

でも、徳川家康が今川家を離反するなり、今川氏真は松平家臣を次々に処刑しました。
そのため、松平康俊が手厚い待遇を受けたとは考えられません。
幽閉、軟禁に近い生活を強いられたのではないでしょうか。

武田家で人質になる

松平康俊が今川家を離れることになったのは、人質となってから5年が経った永禄11年(1568年)。

甲斐国の武田信玄が駿河に侵攻すると、今川家臣・三浦与一郎は武田家に寝返りました。

この時、三浦与一郎は
① 松平康俊
② 同じく今川家の人質となっていた酒井忠次の娘・おふう
を連れて、武田信玄への手土産にしました。

武田信玄と徳川家康は同盟を結んでいました。
そのため、松平康俊は徳川家に帰ることができると期待したかもしれません。

でも、松平康俊は徳川家に帰ることを許されませんでした。
それどころか、武田信玄は松平康俊を厳重に警護し、監視しました。

坊っちゃん
坊っちゃん

今川家を離れた松平康俊は武田家で人質になってしまったんです。

永禄12年(1569年)1月、武田信玄は同盟を破棄。
家臣・秋山虎繁(信友)に命じて、徳川家康の拠点である遠江を攻撃しました。

両足の指を凍傷で失う

元亀元年(1570年)11月、武田信玄が遠江に本格的に侵攻すると考えた徳川家康は、甲斐国にスパイを派遣。
松平康俊を甲斐国から脱出させました。

松平康俊は甲斐国から下山路(山梨県南巨摩郡身延町)を通って、三河国にたどり着きました。

ただ、下山路は豪雪地帯で、大雪の中を歩き続けた松平康俊は両足の指を凍傷で失ってしまいました。

今川家、武田家で命を危険にさらされながらも、徳川家康は忠誠心を抱き続けてきた松平康俊に感謝。
松平康俊に、一文字の刀と当麻の脇差を贈りました。

松平康俊(久松勝俊)の死因

天文11年(1583年)、松平康俊は久能城(静岡市駿河区)の城主となります。

でも、その3年後の天正14年(1586年)、35歳の若さで亡くなりました。

松平康俊は大村越前守の娘と結婚して娘を授かりましたが、息子を授かりませんでした。

跡継ぎがいなかったため、於大の方は松平康俊の叔父・水野忠分の五男・松平勝政を松平康俊の娘と結婚させ、松平家に婿入りさせました。

残念ながら、松平康俊の死因は判っていません。

ただ、三河国に帰って15年以上が経過して亡くなっていることから、松平康俊の死と甲斐国で送った生活や下山路での過酷な移動は無関係だと思います。

まとめ:松平康俊は人生の5分の1を人質として過ごしていた…

今川家と武田家で人質になった徳川家康の異父松平康俊久松勝俊)の生涯と死因を紹介しました。

偉大な徳川家康の異父弟でありながら、異父弟であるからこそ苦労を強いられた松平康俊。
今川家、武田家で人質となった松平康俊は、どの徳川家臣より世の中に通じていたかもしれませんね。

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