元亀3年(1572年)10月13日から始まった徳川家康と武田信玄の戦い。
一言坂の戦い、二俣城の戦い、三方ヶ原の戦い、犀ヶ崖の戦いと続いた戦いも、野田城の戦いをもって終結します。
徳川家康と武田信玄の最後の戦い、野田城の戦いとはどのような戦いだったのでしょうか。
徳川家康と武田信玄の野田城の戦い、武田信玄が見せた不可解な行動の理由を紹介します。
野田城の戦いとは?
野田城の戦いは元亀4年(1573年)1月中旬から2月16日にかけて、野田城(愛知県新城市)で行われました。
武田信玄が野田城を攻めるまで一か月以上の空白があります。
武田信玄は野田城の戦いに参戦していますが、徳川家康は参戦していません。
武田信玄率いる3万人もの武田軍と戦ったのは、野田城将・菅沼定盈とその親戚・設楽貞通率いる500人の徳川軍。
野田城の両側には大きな淵があり、周りにはたくさんの藪がありました。
一見攻撃するのが難しそうな城ですが、野田城は「藪のうちに小城あり」と評されるほど小さな城。
また、三の丸に続く道は整っていたため、大軍率いる武田信玄にとって、力攻めすれば攻略できる城でした。
ところが、武田信玄の取った行動は水の手を断ち切ること。
野田城の戦いでは、地下道を掘り、井戸を破壊。
水の手を断たれた菅沼定盈は開城し、武田信玄に降伏しました。
野田城は岡崎城の東、吉田城の北に位置していたため、徳川家康は野田城を陥落させた武田信玄が岡崎城や吉田城を攻めるものだと思っていました。
ところが、武田信玄は徳川家康の統治する城をこれ以上攻撃することはなく、甲斐へ大人しく戻っていきました。
武田信玄が見せた不可解な行動の理由
野田城の戦いがどのような戦いだったかを紹介しましたが、武田信玄が取った3つの不可解な行動に気づいたでしょうか。
まず、三方ヶ原の戦い、犀ヶ崖の戦いが起きた日と野田城の戦いが起きた日の間に、一ヶ月以上もの空白があること。
三方ヶ原台地と野田城の距離は45キロメートル程度。
移動に一ヶ月以上もかかるはずがありません。
では、武田信玄が一ヶ月以上もの間何をしていたのかというと、浜名湖の北側にある刑部村で野営をしていました。
12月、1月といえば、冬真っ只中です。
一刻も早く野田城を陥落させて、城で暖をとりたいところ。
にも関わらず、刑部村で野営していたなんて不思議ですよね。
次に、野田城の水の手を断ち切って開城をさせたこと。
紹介したように、野田城は淵と藪に囲まれていましたが、三の丸に続く道は整っていました。
3万人の兵をもってすれば、500人の兵で守る野田城なんてすぐ攻略できたはずです。
にも関わらず、わざわざ地下道を掘る労力と一ヶ月を超える時間をかけて開城させるなんて不思議ですよね。
時間だけでなく、お金もかかったのではないでしょうか。
そして、野田城を陥落させたのに、徳川家康が攻めてほしくない岡崎城と吉田城を攻めなかったこと。
岡崎城と吉田城を攻略できれば、三河の制圧まであと一歩。
にも関わらず、小城である野田城を攻略して甲斐に帰るなんて不思議ですよね。
この3つの不可解な行動。
実は、共通した理由があります。
武田信玄の病が悪化していたんです。
三方ヶ原の戦いの最中に喀血し、野田城の戦い直後に、喀血の頻度が増加。
武田軍は武田信玄の体調を見ながら進軍していました。
野田城の戦いで勝利した武田信玄は甲斐に帰ると決めましたが、2月はまだまだ寒い季節。
武田信玄は長篠城で療養し、暖かい春が訪れるのを待ちました。
そして、待っていた暖かい春が訪れ、甲斐に戻っていきますが、甲斐に戻る道中、元亀4年(1573年)4月に亡くなりました。
まとめ
徳川家康と武田信玄の野田城の戦い、武田信玄が見せた不可解な行動の理由を紹介しました。
一言坂の戦い、二俣城の戦い、三方ヶ原の戦い、野田城の戦いと武田信玄に敗北し続けた徳川家康。
武田信玄の病に助けられたと言っても過言ではありません。
武田信玄がもう少し長生きしていたら、徳川家康の人生は大きく変わっていたのではないでしょうか。
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