三方ヶ原の戦いで討死した本多忠真!本多忠勝や本多正信との関係は?

三方ヶ原の戦い討死した本多忠真。

おゆう
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本多氏というと、
・徳川四天王の一人である本多忠勝
・徳川家康の参謀と呼ばれる本多正信
が頭に思い浮かんだ方もいらっしゃるのではないでしょうか。

本多忠真の生涯、本多忠勝本多正信との関係を紹介します。

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三方ヶ原の戦いで討死した本多忠真の生涯

本多忠真は享禄4年(1531年)、もしくは天文3年(1534年)生まれで、父・本多忠豊の長男として誕生しました。

・本多忠豊は徳川家康の祖父・松平清康、父・松平広忠
・本多忠真の祖父・本多助豊は徳川家康の高祖父・松平長親、曾祖父・松平信忠
に仕えていました。

代々松平家に仕える本多家に生まれた本多忠真もまた、松平家、徳川家康に仕えることとなりました。

永禄4年(1561年)、織田家臣であり、徳川家康の伯父でもある水野信元と戦い、武功をあげます。
また、永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆の鎮圧に貢献し、徳川家康から頼りにされていました。

ところが、元亀3年(1572年)12月に勃発した三方ヶ原の戦いで、徳川家康は武田信玄に大敗。

家臣が次々と討死し、徳川家康は命からがら浜松城に退却します。
徳川家康の退却を成功させようと、本多忠真は自ら殿(しんがり)となり、武田軍に突撃。

武田軍の攻撃を受けて、本多忠真は討死しました。

殿となる前、本多忠真は長男・菊丸に徳川家康を守るよう命じました。
菊丸は本多忠真の言いつけを守り、徳川家康を浜松城に送り届けましたが、その後出家しました。

明治24年(1891年)、本多忠真の忠義を称えて顕彰碑が建立されました。

本多忠勝や本多正信との関係は?

本多忠真の他、徳川家臣には、
・徳川四天王の一人である本多忠勝
・徳川家康の参謀と呼ばれる本多正信
などの本多氏がいます。

本多忠真と本多忠勝、本多正信は、どのような関係なのでしょうか。

本多忠勝との関係

本多忠勝は本多忠真の兄・本多忠高の長男。

つまり、本多忠勝は本多忠真の甥にあたります。

おゆう
おゆう

天文18年(1549年)に勃発した第四次安祥合戦で、本多忠高は討死。

本多忠高の妻で、本多忠真の義理の姉にあたる小夜とわずか1歳の本多忠勝を保護。
本多忠真は読み書きや武術などを教えました。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの前哨戦にあたる鷲津砦攻めでは、初陣を迎えた本多忠勝を補佐。

本多忠勝の命を狙う兵を槍で撃退し、本多忠真は本多忠勝から厚く信頼されていました。
いつもそばで本多忠勝を見守ってきた本多忠真は、本多忠勝に養父でもあったのではないでしょうか。

本多正信との関係

異色の徳川家臣として知られる本多正信。

坊っちゃん
坊っちゃん

徳川家臣の中では浮いた存在。
ドラマや小説などで、本多忠真、本多忠勝から煙たがられるシーンをみかけることもしばしば。

本多忠真と本多正信の先祖をたどると、本多氏3代目当主・本多助政に行き着きます。
本多助政の時に本多定通(後の本多忠勝系統)、本多定正(後の本多正信系統)に枝分かれしたためです。

本多忠真と本多正信は同族ではありますが、枝分かれしたのは本多忠真が生まれる何年も前のこと。
遠戚ではありますが、同族意識は既に薄かったと考えられます。

まとめ:本多忠勝の叔父・忠真は三方ヶ原で散った!

本多忠真の生涯、本多忠勝本多正信との関係を紹介しました。

徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父・本多忠真は三方ヶ原の戦いで殿を務め、徳川家康を守り通して討死しました。
本多忠真の徳川家康に対する忠義は同族である本多忠勝、本多正信に大きな影響を与えたのではないでしょうか。

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