徳川家康の母・於大の方と正室・築山殿が不仲で、徳川家康が頭を悩ませていたことはよく知られていますが、於大の方はどのような性格の持ち主だったのでしょうか。
徳川家康の母・於大の方の性格、築山殿との嫁姑問題を逸話と共に紹介します。
徳川家康の母・於大の方の性格は?
於大の方は子どもと家臣をとても大事にしました。
子ども思い
1541年(天文10年)に13歳の若さで松平広忠に嫁いだ於大の方。
翌年には徳川家康を授かりましたが、兄・水野信元のとった行動が原因で、1544年(天文13年)に離縁することとなりました。
現在では、多くの場合、子どもの親権は母がもちますが、戦国時代では跡取りが大事。
3歳の徳川家康を松平家に置いて、於大の方は水野家に帰りました。
水野家に帰った後、於大の方は再婚相手・久松長家(俊勝)の間に、3人の息子と4人の娘を授かりましたが、徳川家康を気遣い、季節に合った着物や大好きなお菓子を贈りました。
また、徳川家康が今川家の人質となると、自身の母であり、徳川家康の祖母にあたる華陽院を世話係とするよう、今川義元に頼み込みました。

於大の方は今川家を裏切り織田家に寝返った水野信元の妹。
下手したら今川義元の怒りを買って、斬られるかもしれません。
でも、於大の方は諦めませんでした。
今川義元は於大の方の頼みを受け入れ、華陽院が今川家で暮らすことを許しました。
於大の方自身は徳川家康に会うことはできませんでしたが、華陽院を通じて徳川家康と繋がり、徳川家康の成長を見守りました。
於大の方が徳川家康と顔を合わせたのは、永禄3年(1560年)に勃発した桶狭間の戦いの真っ最中。
今川義元から大高城に兵糧を届けるよう命じられた徳川家康は、於大の方の住む阿久比城(坂部城)に立ち寄りました。

於大の方と会っていることがバレたら、徳川家康は今川義元から謀反を疑われて討たれるかもしれません。
於大の方もまた、徳川家康と会っていることがバレたら、久松家、水野家を追い出されるかもしれません。
それでも、徳川家康は於大の方に会いに行き、於大の方も徳川家康を受け入れました。
於大の方は松平家の繁栄のために自分を切り捨てた松平広忠を憎んでいたかもしれませんが、子どもは可愛かったんですね。
家臣思い
松平広忠と離縁した於大の方は松平家臣に見送られて、水野家に帰りました。
この時、松平家臣は水野家の拠点・刈谷城まで於大の方を送り届けようとましたが、於大の方は丁重に断って、刈谷城に到着する前に、松平家臣を岡崎城に帰らせました。

松平広忠と離縁した時から、松平家と水野家は敵。
水野信元が松平家臣を討つこと、また、松平広忠が水野家に仕返しすることを恐れたんです。
徳川家康と別れ、悲しみに暮れていた於大の方が松平家、水野家の平和を願って下したとっさの判断。
於大の方が普段から家と家臣を大切にしていたことがうかがえます。
築山殿との嫁姑問題
子ども思いで家臣思い。
まさに戦国武将の妻の鑑(かがみ)だった於大の方。
でも、子ども思い、家臣思いだったからこそ、徳川家康の正室・築山殿と度々衝突しました。
築山殿にとって、織田信長と共に今川義元を討った水野家出身の於大の方は憎き姑。
於大の方は「今川家を離反したのに、今川家出身の女を岡崎城に入れるなんて!築山殿が今川家のスパイだったらどうするの!」と言って、徳川家康に岡崎城から築山殿を追い出すよう言いました。
徳川家臣の中には、「於大の方の言うことはもっともだ」と言って、築山殿に冷たく接する者もいました。
でも、今川氏真によって父・関口氏純を殺された築山殿には、帰る場所がありません。
肩身の狭くなった築山殿は岡崎城外にある築山で静かに暮らすようになりました。
元亀元年(1570年)、徳川家康は浜松城に移り、長男・徳川信康に岡崎城は任せました。
於大の方にとっては築山殿が憎き相手でも、徳川信康にとってはたった一人の母。
徳川信康は築山から築山殿を呼び寄せ、岡崎城で一緒に暮らしました。
嫁姑問題は未解決のまま、終わりを迎えたんですね。
まとめ
徳川家康の母・於大の方の性格、築山殿との嫁姑問題を逸話と共に紹介しました。
子どもと家臣を思っていたからこそ、於大の方は築山殿を遠ざけていました。
於大の方の嫌がらせにうんざりしつつも、同じ戦国武将の妻として、築山殿は於大の方の気持ちを理解していたかもしれませんね。
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