三河一向一揆で徳川家康を追い込んだ本證寺の住職・空誓上人

徳川家康の三大危機に数えられる三河一向一揆。
徳川家康を追い込んだ三河一向一揆のリーダーは本證寺の住職でした。

三河一向一揆徳川家康を追い込んだ本證寺の住職・空誓上人の生涯を紹介します。

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本證寺の住職になる

空誓上人は堅田慈敬寺(じきょうじ)4代目住職・実誓と権大納言四条隆永の娘の間に誕生しました。

実誓は本願寺派中興の祖とされる蓮如の孫。
つまり、空誓上人は蓮如のひ孫にあたります。

永禄4年(1561年)、本證寺9代目住職・玄海が加賀一向一揆に加わり討死すると、空誓上人は本願寺11代目住職・顕如のもとに猶子として迎えられ、本證寺の住職を継ぐこととなりました。

おゆう
おゆう

何故、滋賀県にある慈敬寺に生まれた空誓上人が、愛知県にある本證寺の住職に選ばれたのでしょうか。

当時、一家衆(本願寺派の血縁関係者)を住職に迎えることは、本願寺教団における寺の地位を高めるのに最も有効な手段。

蓮如のひ孫であり、顕如の猶子でもある空誓上人は立派な一家衆で、多くの寺が空誓上人を住職に迎えたがっていたんです。

三河国には、本證寺の他、勝鬘寺(しょうまんじ。愛知県岡崎市)、上宮寺(じょうぐうじ。愛知県岡崎市)があり、この3つの寺は三河三ヶ寺と呼ばれていました。
空誓上人が住職を継ぐこととなった本證寺に同じく、勝鬘寺、上宮寺はそれぞれ一家衆が住職を務めていましたが、勝鬘寺、上宮寺の住職は一家衆の遠縁。

空誓上人を住職に迎えたことによって、本證寺は三河三ヶ寺の中で最も高い地位を確立しました。

三河一向一揆で徳川家康を追い込むも追放される

永禄6年(1563年)9月、徳川家臣・菅沼定顕が上宮寺に侵入して米を奪い去りました。
また、徳川家臣である西尾城主・酒井正親が本證寺に逃げた罪人を捕らえてしまいました。

守護使不入の特権を侵害されたとして、本證寺は勝鬘寺と上宮寺に呼び掛け、三河三ヶ寺と徳川家康は対立することとなりました。

永禄7年(1564年)2月、徳川家康は一揆衆に守護使不入の特権を与える、罪を問わない、一揆が勃発する前の状態に戻すなどの条件を提示して和解にもちこみ、三河一向一揆を収束させました。

ところが、一揆が収束したのを確認するなり、徳川家康は三河三ヵ寺の僧に改宗を迫ります。
改宗を拒否した空誓上人は三河国から追放されてしまいました。

3つの罪で罰される

三河一向一揆から19年が経った天正11年(1583年)、徳川家康は三河三ヶ寺を除く本願寺派を赦免しました。

おゆう
おゆう

この頃、徳川家康は清洲同盟を結んでいた織田信長を本能寺の変で失い、織田家臣・豊臣秀吉と対立していました。
再び一揆衆が蜂起したら、豊臣秀吉に敗北してしまうと恐れたのかもしれません。

徳川家康から赦免されなかった空誓上人は、取次を担っていた徳川家臣・本多重次から入手した書状を「(徳川家康から)寺を建立する許可を得た」と偽造。
空誓上人は徳川家康の許可を得ず三河国に再び足を踏み入れ、寺を建立しました。

坊っちゃん
坊っちゃん

面子を潰された本多重次は怒り心頭。

三河国に戻ってはいけないのに戻った、寺を建立する許可を得ていないのに建立した、書状を偽造したという3つの罪で、空誓上人は罰されることとなりました。

徳川義直を補佐する

天文13年(1585年)、徳川家康が豊臣秀吉と和解した翌年に、徳川家康は三河三ヶ寺を赦免。

空誓上人は早速本證寺の復興に取りかかりました。
同時に、徳川家と良好な関係を築くべく、徳川家康の小田原征伐の勝利を祝ったり、徳川家康が関東に移封されると、三河国にあった徳本寺を江戸に移したりしました。

こうして、徳川家康から信頼を寄せられるようになった空誓上人は、徳川家康の九男・徳川義直の補佐を任されます。

慶長19年(1614年)、空誓上人は70歳でこの世を去りましたが、本證寺の歴代住職は尾張藩主と将軍に謁見することが許されました。

まとめ

三河一向一揆徳川家康を追い込んだ本證寺の住職・空誓上人の生涯を紹介しました。

空誓上人は三河一向一揆で徳川家康を追い込みましたが、晩年は徳川家康や徳川義直を助けました。
空誓上人も徳川家康も年齢を重ねて、角が取れたのかもしれませんね。

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