駿府城、長浜城を任された徳川家康の異母弟・内藤信成は謙虚?野心家?

徳川家康に仕えて数々の戦いで活躍し、駿府城主、そして、長浜城主となった内藤信成。
実は、内藤信成は徳川家康異母弟でした。

内藤信成の生涯、謙虚ではなく野心家だったかもしれないエピソードを紹介します。

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内藤信成の生涯

内藤信成は天文14年(1545年)生まれで、松平広忠の庶子として誕生しました。

松平広忠は徳川家康の父で、正室・於大の方、継室・田原御前(真嬉姫)がいましたが、内藤信成の生母はどちらでもありません。

おゆう
おゆう

内藤信成の生母には2つの説があります。

一つは嶋田景信の妻。
嶋田景信に嫁ぐ前に、松平広忠の寵愛を受け、松平広忠の子どもを身ごもったまま、嶋田景信と結婚。
嶋田景信と結婚してわずか3ヶ月後に内藤信成を出産したという説。

もう一つは、松平広忠の侍女である小野次郎右衛門の娘。

すけさん
すけさん

結婚を控えている女性に手を出したとしても、侍女に手を出したとしても、どちらの説であっても、正室のいる松平広忠にとってイメージダウンな話。

内藤信成が生まれたいきさつを知った家臣・内藤清長は、内藤信成を引き取って育てることにしました。

この時、44歳だった内藤清長は既婚者でしたが、子どもを授かっていませんでした。
そこで、松平広忠の血を引く内藤信成を養子として迎え、家督を継がせるつもりでした。

この翌年の天文15年(1564年)、内藤清長に実子・内藤家長が誕生しました。

徳川家康に仕える

内藤信成が異母兄・徳川家康と顔を合わせたのは弘治3年(1557年)。

13歳だった内藤信成は松平元信と名乗っていた徳川家康から一文字・信を頂戴し、内藤信成と名乗るようになりました。
同時に、徳川家康の側近として仕えることとなります。

義弟・内藤家長と共に三河一向一揆を鎮圧する

永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆では、養父である内藤清長が一揆衆となって徳川家康に刃向かう中、内藤信成は義弟・内藤家長と共に徳川家康にしたがって、一揆の鎮圧に貢献しました。

敗れた内藤清長は荻城(愛知県幸田町)で蟄居(ちっきょ)し、永禄7年(1564年)に亡くなりました。

永禄12年(1568年)、徳川家康が今川氏真の籠城する掛川城を攻めた時、内藤信成は鉄砲で左ももを負傷しました。

動けない内藤信成に代わって、内藤家長が掛川城を攻撃。
三河一向一揆に続いて、兄弟で活躍しました。

韮山城主となる

元亀3年(1572年)に勃発した一言坂の戦いでは、本多忠勝と共に武田軍の偵察を行いました。

徳川軍に勝ち目がないと判断した内藤信成は退却を進言。
退却する途中で武田軍の攻撃を受けましたが、もし、内藤信成が退却を進言していなければ、徳川軍は壊滅していたかもしれません。

その後も、長篠の戦い、高天神城の戦い、小牧・長久手の戦いなど、数々の戦で活躍。
天文17年(1589年)、功績を認められた内藤信成は甲斐常光寺城主に任命されました。

天正18年(1590年)、小田原征伐で武功をあげた内藤信成は、豊臣秀吉から陣羽織と青江の刀を直々に贈られました。
徳川家康が関東に移封されると、伊豆国1万石を与えられ、北条氏規に代わって、韮山城主となりました。

長浜城主となる

慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いでは、駿河国沼津の守りにあたり、翌年の慶長6年(1601年)には駿府城主に任命されました。

従五位下豊前守を経て、慶長11年(1606年)には長浜城主となりました。

内藤信成が去った駿府城には、三男・徳川秀忠に将軍職を譲り、事実上引退した徳川家康が移りました。

慶長17年(1612年)、内藤信成は長浜城にて68歳で亡くなりました。

内藤信成の亡くなった後、内藤氏は摂津高槻に移封となり、長浜城は廃されました。

内藤信成は謙虚だった?野心家だった?

松平広忠の庶子として誕生した内藤信成は、実子のいなかった内藤清長に引き取られましたが、内藤信成が生まれた翌年には、実子・内藤家長が誕生しました。

おゆう
おゆう

一般的には、血の繋がっている実子を跡継ぎにしたいもの。

でも、内藤清長は内藤信成を松平広忠に返すこともせず、また、内藤信成を跡継ぎから外すこともしませんでした。

坊っちゃん
坊っちゃん

一方、内藤信成は内藤家長が跡継ぎになるべきだと考え、内藤家長に家督を譲りました。

そして、内藤信成は新たに内藤家(信成系内藤家)を興します。

家督を継がず、4万石の戦国大名となった内藤信成。
内藤家長に家督を譲った背景が、内藤信成の謙虚な性格によるものだったのか、それとも、野心によるものだったのか、気になりますね。

まとめ

内藤信成の生涯、謙虚ではなく野心家だったかもしれないエピソードを紹介しました。

松平広忠の庶子だった内藤信成は内藤清長の養子となるも、その翌年には、実子・内藤家長が誕生し、肩身の狭い想いをしていたかもしれません。

内藤信成は苦境をばねに新たに内藤家を興したんですね。

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