則天武后が譲位した第6代皇帝・中宗と第8代皇帝・睿宗の間に即位したのが、第7代皇帝・殤帝です。
日本の歴史の授業には、全くと言っていいほど登場しない殤帝。
殤帝とはどのような人物なのでしょうか。
そのため、中宗は第4代、第6代皇帝で、また、睿宗は第5代、第8代皇帝です。
このページでは、第7代皇帝・殤帝に焦点を当てるため、中宗を第6代皇帝、睿宗を第8代皇帝として紹介します。
殤帝の生涯、漢字の意味を紹介します。
殤帝ってどんな人?
殤帝の生涯を4つに分けて紹介します。
中宗の第4皇子に生まれる
殤帝の本名は李重茂といって、695年、中宗と側室の間に生まれました。
名前が後世に伝わらない多くの理由は、その人の身分が低いからです。
中宗が流罪先・房州(湖北省十堰市)で生活している時に、偶然知り合った一般人女性が産んだのではないかと考えられています。
700年には北海王に、705年には温王に封じられ、右衛大将軍、并州大都督に任命されましたが、十分な教育を受けさせてもらえなかったため、政治には疎いままでした。
皇帝になる
710年6月、中宗の妻・韋皇后と第8皇女・安楽公主が、中宗を毒殺してしまいました。
突然空いた皇帝のポスト。
7月、殤帝は16歳の若さで即位しました。
睿宗に譲位する
第7代皇帝になったものの、政治に疎かった殤帝。
実際に、朝廷を動かしていたのは韋皇后でした。
韋皇后は皇帝に、安楽公主は皇太子になりたいと思っていて、二人にとって殤帝は、即位する準備が整うまでのつなぎでしかありませんでした。
睿宗の第3皇子・李隆基と高宗の第4皇女・太平公主は、韋皇后、安楽公主、裏で糸を引いていた上官婉児を殺害しました。
そして、睿宗に譲位するように、殤帝に迫りました。
政治にどんなに疎い殤帝でも、自分が皇帝の器ではないことには気付いていました。
でも、譲位するように迫られたのは、即位してからわずか18日目のこと。
こんなに早く譲位することになるとは思っていませんでした。
殤帝は睿宗に玉座を譲らず、呆然と座っていました。
すると、太平公主が「睿宗に譲位すれば、民が安心できる」、「子どものくせに、玉座にいつまでも座っているんじゃない!」と言いました。
臣下は「皇帝陛下(睿宗)!万歳!万歳!万々歳!」と言って、睿宗の即位を求めました。
こうして、殤帝はたった18日の在位期間で退位しました。
19歳で崩御する
睿宗に譲位した殤帝は、温王に再び封じられましたが、殤帝に迷惑な事件が起きます。
濮州に左遷されていた李重福が、「私こそ、皇帝にふさわしい」、「殤帝を皇太弟にしたい」と言って、反乱を起こしたんです。
李重福の反乱は李隆基に鎮圧され、名前を挙げられただけの殤帝は房州刺史に左遷となりました。
その後、各地を転々とし、714年9月、梁州(陝西省漢中市)で崩御しました。
殤の漢字の意味
日常生活ではお見かけしない殤という漢字。
調べてみたところ、殤は漢検1級レベルの漢字です。
実は、私、漢検準1級合格者ですが、確かに準1級で勉強した記憶がありません。
削られて残った骨を表していて、死や傷に関連する漢字に使われます。
そんな暗い雰囲気をもつ殤は、この漢字一文字で20歳を迎える前に亡くなることを意味します。
私達が歴史の授業で習う高祖や太宗、高宗は諡号といって、崩御した皇帝に贈られる呼び方です。
「陛下は若くして崩御されましたね。殤帝という諡号を贈ります」と決められるわけです。
19歳で亡くなったことを考えると、殤帝という諡号を贈られるのは理解しやすいかもしれません。
中国歴代王朝の皇帝を調べると、紹介した唐の第7代皇帝の他にもう一人、殤帝がいます。
後漢の第5代皇帝です。
後漢の殤帝は105年に生まれ、106年に崩御しました。
106年2月13日に、わずか1歳で即位しましたが、1歳の子どもが政治を行うのは困難。
第4代皇帝・和帝の妻・鄧綏皇太后とその兄・鄧騭が代わりに政治を行いました。
一般的に、外戚による政治は悪政であることが多いんですが、鄧綏皇太后と鄧騭による外戚政治は良政だったといわれています。
まとめ
殤帝の生涯、漢字の意味を紹介しました。
殤帝は19歳で崩御した短命の皇帝で、韋皇后や安楽公主、李隆基や太平公主、李重福に振り回された人生を送りました。
在位期間がたった18日間とはいえ、第7代皇帝だったことには変わりありません。
殤帝に関して、もっと詳しく知ることのできる史料が見つかるといいですね。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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