いつの時代も、航海には危険がつきもの。
もちろん、630年から894年まで、日本と唐を行き来していた遣唐使も、漂流したり、難破したりと窮地に立たされました。
そこで、気になる遣唐使の帰還率、遭難した遣唐使が帰国した方法、遭難した理由を紹介します。
遣唐使の帰還率は?
現在の航海のように、到着地をピンポイントで絞り込むことができなかった遣唐使。
荒波を超えて唐に渡った、また、日本に戻った遣唐使の中には、もちろん、遭難を経験した人物がいます。
そこで、気になるのが遣唐使の帰還率。
どれぐらいの率で帰国できたのか、気になりませんか?
遣唐使は全部で20回行われたと考えられていますが、実際に日本を出発したのは15回です。
つまり、遣唐使は全部で20回行われているとしても、実際に日本を出発したのは、その5回を差し引いた15回なんです。
時代によって異なりますが、第7回遣唐使以前は2隻で、第8回遣唐使以降は4隻で向かうことがほとんどでした。
日本を出発した15回の遣唐使のうち、往路、あるいは復路で、1隻以上遭難したといわれているのが、
往路にて、2隻中、第2船が薩摩沖にて遭難
・第4回遣唐使
往路にて、2隻中、第1船が南海の島・爾加委に漂着
・第10回遣唐使
復路にて、4隻中、第1船が種子島に漂着、第2船が唐に漂着、第3船が崑崙国に漂着、第4船が難破
・第12回遣唐使
復路にて、4隻中、第1船が座礁し安南に漂着、第3船が紀伊国太地(現在の和歌山県東牟婁郡太地町)に漂着、第4船は火災に遭うも薩摩国石籬浦(現在の鹿児島県揖宿郡頴娃町)に無事漂着
・第18回遣唐使
往路にて、4隻中、第3船が肥前松浦郡で座礁して遭難するも、大宰府に帰還、第4船も遭難したが無事に帰還
・第19回遣唐使
往路にて、4隻中、1隻が遭難し、揚州の海岸に乗り上げて大破
復路にて、1隻が復路で南海の島に漂着するも、大隈国(現在の鹿児島県)に無事漂着
と伝えられています。
実際に日本を出発した15回の遣唐使のうち、6回が遭難しているんですね。
船の数を考えずに、回数だけで計算すると、遭難率は40%ということになります。
ただし、遭難しても、自分達で木材を集めて筏をつくるなどして帰国した遣唐使が多く、帰還率は高いと考えられます。
遭難者はどんな方法で帰国したの?
紹介したように、遭難しても帰国した遣唐使が多くいます。
では、遭難した遣唐使はどのようにして帰国したのでしょうか。
733年に唐に渡り、734年10月に唐を出発した第10回遣唐使を例に、詳しくみていきましょう。
第10回遣唐使の大使は多治比広成、副使は中臣名代、判官は平群広成、秦朝元らでした。
734年10月、4隻の遣唐使船に、4人は責任者として一人ずつ乗り込み、唐を出発しました。
ところが、出発してすぐに、4隻全てが強風によって遭難してしまいます。
多治比広成が乗っていた船は、11月に種子島に漂着しました。
8世紀には、種子島は律令国家の支配下だったため、種子島に漂着した多治比広成は無事帰国することができました。
中臣名代が乗っていた船は、東南アジア海域まで流され、半年かけて、広州(広東省広州市)にたどり着きました。
中臣名代は帰国するチャンスを得ようと、唐の第9代皇帝・玄宗に謁見し、道教を学びたいと申し出ました。
玄宗は儒教や仏教より道教を大切にしていました。
そこで、中臣名代は道教を学ぶ姿勢を見せて、玄宗に気に入ってもらおうと考えたんです。
道教を学び始めて8ヶ月が経った735年11月、中臣名代は道教を日本に広めたいと申し出て、帰国することが許されました。
遣唐使船を修理し、736年8月に無事帰京を果たしました。
道教を学びたい、道教を日本に広めたいと申し出たのは、帰国するチャンスを得るためだったことがよく分かりますね。
平群広成が乗っていた船は崑崙国、つまり、現在のベトナムに漂着しました。
現地人とコミュニケーションを取る通訳がいなかったため、現地人に捕らえられ、90人を超える遣唐使が亡くなってしまいました。
平群広成を含む生き残った4人は崑崙国から逃げ出しました。
多くの遣唐使が亡くなったことを知った玄宗は、唐の六都護府の一つである安南(ハノイ)都護府に命じて、4人が唐に戻れるように手配しました。
こうして唐に戻ることができた平群広成は、当時唐に留学していた阿倍仲麻呂を頼り、渤海国(中国東北部及び朝鮮半島北部)を経由して帰国したいと申し出ました。
玄宗はその申し出を聞き入れ、船や航海中に必要な衣食を用意しました。
738年5月、渤海国にようやく到着しましたが、この頃、渤海国は日本に使節を派遣しようとしていたため、平群広成は渤海大使・胥要徳と一緒に、2隻の船で日本海を渡ることになりました。
ところが、胥要徳が乗っていた船は荒波に飲まれて転覆。
胥要徳は亡くなってしまいました。
平群広成は生き残った渤海使節を自分の船に乗せて、出羽(秋田県、山形県)にたどり着き、10月にやっと帰京することができました。
残りの1隻の遣唐使船がどうなったのかは分かっていません。
遣唐使が遭難した理由
遭難する遣唐使を想像した時、「当時の船舶技術が低かったから、遭難したのでは?」と考える方も多くいらっしゃるかもしれません。
でも、遣唐使の遭難には、当時の船舶技術のレベルより、日本や唐を出発した時期が大きく影響しています。
当時、日本は朝貢国であり、唐に派遣される遣唐使は朝賀に参列しなければいけませんでした。
朝賀とは皇帝が文武百官からお祝いやお礼の挨拶を受ける行事で、毎年元旦に行われていました。
そのため、遣唐使は朝賀に間に合うよう、大宰府を出発しました。
遅くとも9月までには、大宰府を出発しなければ、朝賀に間に合わなかったと考えられています。
でも、9月といえば、台風が多く、航海には最も適していない時期だと言っても過言ではありません。
また、遣唐使は留学を終えたらすぐに帰国しなければならず、9月に唐を出発した遣唐使もいました。
そのため、往路、復路を含めて、転覆したり、漂流したり、目的地とは異なる場所に到着したりする遣唐使船があったんですね。
まとめ
遣唐使の帰還率、遭難した遣唐使が帰国した方法、遭難した理由を紹介しました。
遣唐使の遭難率は40%ですが、遭難してもなんとか帰国できた遣唐使が多く、帰還率は高いと考えられます。
遭難した理由には、朝賀に参列するために、台風の多い9月に日本を出発したことが挙げられます。
出発する時期をずらしていれば、遣唐使はもっと安全に航海できたかもしれませんね。
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