玄宗の側近として有名な高力士。
玄宗が皇帝に即位する前から、玄宗を励まし支え続けた友人でもあります。
自宅にめったに帰らず、玄宗が呼び出したらすぐに応じられるよう、宮廷に寝泊まりしていたのだとか。
人生を玄宗にささげた高力士とは、どのような人物なのでしょうか。
高力士の生涯、後世に与えた影響を紹介します。
高力士ってどんな人?
高力士は684年生まれで、潘州(広東省茂名市)の出身。
則天武后に仕える
幼い頃に去勢し、698年、14歳で、太宗の第3皇子・李恪の長男・李仁によって、則天武后に献上されました。
教養があり、頭の回転も速く、また、身長は196cmもあり、イケメンだったため、則天武后に気に入られ、詔勅を審議する給事に任命されました。
高延福の養子になる
ところが、過失を犯し、則天武后の怒りに触れて、宮廷から追い出されてしまいます。
宦官・高延福が養父として高力士を引き取り育てました。
高延福は則天武后の甥・武三思に仕えていたため、高力士は武三思と仲良くなり、わずか一年で、則天武后から宮廷に呼び戻されました。
玄宗と仲良くなる
則天武后が崩御し、第4代皇帝・中宗が即位すると、中宗の弟・李旦(後の睿宗)の第3皇子・李隆基(後の玄宗)と仲良くなりました。
李隆基が韋皇后と安楽公主を排除するクーデターを起こした際に協力し、朝散大夫、内給事に任命されました。
知内侍省事に任命される
玄宗が即位すると、宦官の仕事を取りまとめる内侍省の長官・知内侍省事に任命されました。
宦官でありながら、正三品の官職を与えられたのは高力士が初めてでした。
王毛仲を流罪に処する
玄宗が即位する前から、玄宗に仕えていた王毛仲という軍人がいました。
王毛仲はもともと玄宗の家の奴婢で、玄宗が起こしたクーデターでも大活躍。
戦闘の第一線に立つ左龍武衛大将軍に任命され、高力士をしのぐ勢力となっていました。
そこで、高力士は王毛仲を排除しようと、玄宗に「王毛仲がクーデターを企んでいる」と言って、流罪に処しました。
王毛仲は永州(湖南省永州市)で自害を命じられました。
皇太子に李亨を推薦する
736年第2皇子・李瑛と第18皇子・李瑁の皇太子争いが起き、朝廷には李瑛派と李瑁派の2つの派閥ができあがりました。
でも、玄宗の寵愛を独占していた李瑁の母・武恵妃が李瑁を皇太子にするよう、玄宗にお願いしました。
そこで、武恵妃の味方をしたほうが得だと思った宰相陣が李瑁派を作り、皇太子争いが始まったんです。
玄宗がどちらを皇太子にするべきか決めかねていたところ、高力士は第3皇子である李亨(後の粛宗)を皇太子に推薦しました。
高力士の言うとおり、玄宗は李亨を皇太子に選びました。
玄宗と一緒に蜀へ逃げる
安史の乱が勃発し、安禄山に洛陽や長安を奪われると、高力士は玄宗や楊氏一族と共に、蜀(四川省成都市)へ逃げました。
楊貴妃を殺す
蜀への道中、楊氏一族への恨みが爆発し、兵が反乱を起こしました。
楊氏一族はことごとく殺され、残ったのは楊貴妃ただ一人になりました。
玄宗は楊貴妃を殺したくありませんでしたが、楊貴妃が生きていては兵の怒りが治まりません。
「兵の怒りを静めるためには楊貴妃を殺すしかない」と言って、高力士は玄宗を説得しました。
玄宗は高力士に楊貴妃の処分を任せました。
巫州に左遷される
玄宗が粛宗に譲位すると、玄宗が復位することを恐れた粛宗の側近・李輔国は玄宗を捕らえようと兵を動かしました。
玄宗の身の危険を感じた高力士は李輔国を追い払いましたが、李輔国に疎まれて巫州(湖南省懐化市)に流罪になりました。
78歳で亡くなる
長安に向かう途中、玄宗が崩御したことを知りショックを受け、高力士は朗州(湖南省常徳市)で亡くなりました。
高力士が後世に与えた影響は?
高力士は自ら進んで前に出るような性格ではありませんでしたが、玄宗のアドバイザーとなって、朝廷で実権を握っていたといっても過言ではありません。
その証拠に、敵対する王毛仲を排除するよう進言したり、李林甫や李適之達が昇進できるよう働きかけたりしました。
高力士が現れるまで、宦官に任されていた仕事は、皇帝の身支度のお世話や後宮の女性の教育係などの雑務がほとんど。
もしかしたら、高力士のように重要な仕事を任されていた宦官がいたのかもしれませんが、高力士ほど高い官職を与えられた宦官はいません。
玄宗から高い官職を与えられたことで、高力士は堂々と実権を握れたんです。
玄宗の後に即位した粛宗の治世では、同じく宦官である李輔国が実権を握りました。
宦官が実権を握るだけなら良かったんですが、宦官の勢力は宦官ではない高官の勢力をしのぎ、やがて、皇帝が威厳を損なうほどまでに拡大しました。
宦官に実権を握られた唐は衰退していきました。
高力士と玄宗は宦官が権力を握るきっかけを作ってしまったのかもしれませんね。
まとめ
高力士の生涯、後世に与えた影響を紹介しました。
高力士は14歳で宮廷に入り、則天武后に仕えました。
その後、玄宗に仕え、宦官で初めて正三品の官職を与えられました。
敵対する者を排除し、自分に取り入る者を昇進させる、皇太子を推薦するなど、朝廷で実権を握りました。
でも、玄宗が粛宗に譲位し、皇帝としての権力を失うと、高力士も権力を失い、巫州に左遷されて78歳で亡くなりました。
高力士に高い官職を与えた玄宗、玄宗から高い官職与えられた高力士は、宦官が朝廷で権力を握るきっかけを作ってしまいました。
この後、唐は衰退の一途をたどりました。
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