世界史の教科書に登場する、初唐の皇太子争い・玄武門の変。
何故、玄武門の変は起きたのでしょうか。
玄武門の変が起きた理由と経過、余波を紹介します。
玄武門の変が起きた理由
玄武門の変とは、626年6月4日に玄武門で起きた皇太子争いを指します。
唐の初代皇帝・高祖と妻・竇皇后の間には、李建成、李世民、李玄霸、李元吉の4人の皇子がいました。
この4人のうち、李玄霸は高祖が即位する4年前に亡くなっていて、高祖が唐を建国する際に、高祖の力になったのは李建成、李世民、李元吉の3人でした。
中でも、李建成と李世民は、優柔不断な高祖の決断をうながし、また、敵を恐れる高祖を励まし続けました。
高祖が長安を平定して、唐を建国すると、李建成は皇太子になりました。
高祖を長年支え続けた李建成と李世民。
2人のどちらが高祖をよりサポートしたかというと李世民です。
というのも、李建成は高祖から留守を任されることがあり、戦績を多く残したのは李世民でした。
高祖が唐を建国した当時、李建成は29歳で、李世民は20歳でした。
年齢的に皇太子に適しているのは李建成ですが、皇太子の素質があるのは李世民です。
李建成は李世民から皇太子の座を奪われるのではないかと不安になり始めました。
そして、李元吉と共に、李世民の暗殺を企てました。
李建成は李世民を2回暗殺しようとしました。
が、1回目は失敗する可能性が高かったので暗殺計画を取りやめ、2回目は李世民に毒酒を飲ませることができましたが、李世民は血を吐いただけで亡くなりませんでした。
そこで、李建成は李世民の暗殺を中断し、李世民から権力を奪うことにしました。
まず、李世民の優秀な臣下である房玄齢と杜如晦を左遷させました。
次に、李世民の配下にある優秀な将軍・尉遅敬徳や段志玄を買収しようと、2人に金品を渡しました。
ところが、2人は金品を受け取らず、李建成の買収行為を李世民に報告しました。
2度の暗殺未遂に加えて、側近を左遷され、買収しようとされた李世民。
李建成からいつか殺されるのではないかと、李世民は身の危険を感じました。
玄武門の変の経過
身の危険を感じた李世民は左遷された房玄齢と杜如晦に変装をさせて、自宅に呼び出し、作戦会議を開きました。
そして、李建成と李元吉が高祖の側室に手を出していると上奏しました。
李世民の上奏を信じられなかった高祖は、李建成と李元吉を取り調べようと呼び出しました。
高祖に呼び出された2人は、玄武門を通って、高祖に会いに行きます。
2人が玄武門を通りがかったところを、李世民は待ち伏せして襲撃しました。
これを玄武門の変といいます。
李世民は李建成の部下・常何を買収していたため、襲撃はスムーズに進みました。
玄武門の変の余波
李建成と李元吉にはそれぞれ5人の息子がいましたが、息子は全員殺され、妻と娘は生かされました。
李元吉の妻・楊氏は李淵の側室となり、第14皇子・李明を出産しました。
ドロドロの昼ドラみたいです。
李建成の側近・魏徴は率直さを、馮立は主人への忠誠心を評価され、朝廷から追い出されることなく、李淵の臣下として取り立てられました。
また、李淵が買収した常何は馬軍副総管に任命されました。
3人の皇子が皇太子争いをし、李世民が李建成と李元吉を殺したと知った高祖は、2人亡くなった3日後の6月7日に、李世民を皇太子にしました。
李世民は玄武門の変で功績を立てた長孫無忌と杜如晦を皇太子府の左庶子に、長孫無忌の伯父・高士廉と房玄齢を右庶子に任命しました。
それから10日後の6月16日には、高祖は李世民に譲位し隠居。
李世民は28歳で唐の第2代皇帝・太宗として即位しました。
まとめ
玄武門の変が起きた理由と経過、余波を紹介しました。
玄武門の変のきっかけは、李建成と李元吉の李世民に対する嫉妬です。
李建成と李元吉は李世民の度重なる活躍に嫉妬し、また、李建成は皇太子の座を奪われるのではないかと危機感を募らせました。
李建成と李元吉が自分を殺そうとしていることを知った李世民は、二人を罠にはめ、玄武門と通りがかる二人を待ち伏せして襲撃しました。
玄武門の変が起きた3日後には、李世民は皇太子になり、皇太子になった10日後には、第2代皇帝に即位しました。
同じ母親から生まれた兄弟同士の争いなんて、現代では想像もできませんが、当時、李世民、李建成、李元吉の3人はそれだけ追い詰められていたのかもしれませんね。
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