ドラマ「武則天-The Empress-」で、次々と悪事を企む韋貴妃。
韋貴妃は唐の第2代皇帝・太宗の側室ですが、実際、韋貴妃はどのような人物だったのでしょうか。
韋貴妃の生涯、ドラマの設定との違いを紹介します。
韋貴妃ってどんな人?
韋貴妃は597年生まれで、京兆郡杜陵県(現在の陝西省西安市)の出身。
珪は諸侯(君主に仕える貴族)の身分を示す玉を表しています。
父は陳州(現在の河南省周口市)刺史を務めた韋円成で、韋貴妃が4歳の時に亡くなりました。
李珉と結婚する
太宗の側室になる前、韋貴妃は隋で戸部尚書を務めていた李子雄の子ども・李珉と結婚し、613年、わずか16歳で、娘・定襄県主を出産しました。
太宗の側室になる
李珉が亡くなって死別すると、「家柄がいいから」という理由で、621年、李世民の側室として、宮廷に迎えられました。
当時、女性が再婚するのは珍しいこと。
既婚で、皇帝の側室に迎えられるなんて、もっと珍しいことでした。
貴妃に冊立される
624年、太宗の第11皇女・臨川公主を出産し、626年に李世民が唐の第2代皇帝・太宗に即位すると、翌年、貴妃に冊立されました。
つまり、韋貴妃は太宗の正妻・長孫皇后に次ぐ位でした。
貴妃に冊立された年、韋貴妃の母が亡くなり、両親を失った韋貴妃は悲しみに暮れました。
韋貴妃をかわいそうに思った太宗は、韋円成が亡くなって25年が経つにもかかわらず、韋円成に徐州都督を追贈しました。
628年、韋貴妃は太宗の第10皇子・李慎を出産しました。
後宮のトップになる
636年、長孫皇后が亡くなりました。
太宗は皇后を新たに冊立せず、側室のトップである韋貴妃が後宮のトップになりました。
都を離れて、荊州に移り住む
649年に太宗が崩御すると、李慎が紀王に封じられていたことにちなんで、韋貴妃は紀国太妃に冊立されました。
651年、李慎が荊州(湖北省荊州市)都督になり、長安を離れることになったため、韋貴妃は李慎と共に荊州に移り住みました。
69歳で病死する
665年、高宗は泰山で封禅の儀を行うことにしました。
そのため、韋貴妃も泰山へ駆けつけましたが、移動中に病を患いました。
高宗は韋貴妃を助けるように侍医に指示しましたが、残念ながら、封禅の儀に参列できないまま、69歳で亡くなってしまいました。
ドラマの設定との違いは?
ドラマ「武則天-The Empress-」では、韋貴妃はどのような人物設定なのでしょうか。
① 貴妃(後宮のトップという立ち位置)
② 太宗との間に、子どもを授からず焦っている
③ 姪・蕭婕妤に謀られて、自害に追い込まれる
です。
紹介したように、史実によると、韋貴妃は臨川公主と李慎を授かっていて、泰山に移動している間に病死しているので、ドラマと史実の共通点は①の貴妃(後宮のトップという立ち位置)だけかと思います。
ドラマでは、太宗との間に子どもを授からなかった韋貴妃が、太宗の寵愛を取り戻そうと、他の后妃を罠にはめて、後宮から追い出したり、太宗の第4皇子・李泰と手を組んで、皇太子争いに関与したりします。
ドロドロドラマのあるある設定ですね。
ドラマはドラマ、史実は史実。
ドラマの設定だけで、韋貴妃を悪女だと決めつけないようにしましょう。
まとめ
韋貴妃の生涯、ドラマの設定との違いを紹介しました。
韋貴妃は24歳で太宗の側室になり、臨川公主、李慎を出産しました。
長孫皇后が亡くなると、太宗が皇后を新たに冊立しなかったため、韋貴妃が後宮のトップになりました。
太宗が崩御すると、韋貴妃は紀国太妃となり、李慎と共に荊州に移り住みました。
その後、69歳で病死しました。
ドラマでは、後宮を牛耳る悪女という設定ですが、実際には、後宮のトップであり、子どもを授かっていたことから、後宮の争い事を望まない女性で、また、息子が大好きなお母さんだったのかなと思います。
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