唐の第2代皇帝・太宗(李世民)の妻・長孫皇后。
聡明で、物事を正しく判断できる賢后として有名ですが、長孫皇后はどのような人物なのでしょうか。
長孫皇后の生い立ち、残した女則と遺言の内容を紹介します。
長孫皇后ってどんな人?
長孫皇后は601年生まれで、河南郡洛陽県(河南省洛陽市)の出身。
祖父・長孫兕、曾祖父・長孫稚、高祖父・長孫観は、北魏で軍人として大活躍しました。

先祖をたどっていくと…
長孫観の祖父・長孫道生がは61歳で司空に任命されました。
司空は古代中国の官制で最高位の名誉職。
司徒・太尉・司空の3つの官職がありましたが、長孫道生は亡くなった後に太尉を追贈されました。
長孫皇后が高貴な生まれであることがよくわかりますね。
母方の高氏のもとで育つ
残念ながら、長孫皇后の名前は伝わっていませんが、幼少期のあだ名は観音婢といいます。
(こちらでは混乱を避けるため、長孫皇后と記載します。)
609年、8歳の時に、父・長孫晟が57歳で亡くなります。
義理の兄・長孫安業が家督を継ぎ、長孫皇后や母・高氏、兄・長孫無忌をいじめるようになりました。
自宅への出入りも禁止された長孫皇后は長孫安業のもとを離れ、伯父・高士廉を頼りました。
太宗の妻になる
613年、兄・長孫無忌と古くからの友人である太宗(李世民)と、13歳で結婚。
太宗と太宗の兄・李建成が不仲になると、仲をとりもちます。
一方、玄武門の変では、兵に武器を配るなどして、太宗を支えました。
626年6月、太宗が皇太子に冊立されると、長孫皇后は皇太子妃になります。
そして、9月に太宗が即位すると、皇后に冊立されました。
7人の子どもを授かる
結婚した年齢が幼かったためか、長孫皇后は子どもになかなか恵まれませんでした。
子どもを授かったのは結婚して5年後。
618年に、第1皇子・李承乾を授かりました。
その後、620年に李泰、621年に長楽公主と、立て続けに子どもを授かります。
628年には、後に唐の第3代皇帝・高宗となる李治を出産しました。

李承乾を出産した618年から、末子となる新城公主を出産した634年までの17年間。
なんと7人もの子どもを出産しました。
長孫安業をかばう
紹介したように、結婚前、長孫皇后は長孫安業からいじめられていました。
長孫皇后の結婚によって、長孫安業は将軍に抜擢されます。

ところが、長孫安業はクーデターを企て、恩を仇で返してしまいます。
通常であれば、長孫安業は死刑に処されますが、長孫皇后は長孫安業の減刑を求めました。
もし、長孫安業が死刑に処されれば、
・長孫皇后が過去の恨みを死刑で晴らした
・皇后という立場を利用した
と思われる可能性があったからです。
長孫安業は巂州(四川省涼山イ族自治州)に流刑で済みました。
36歳で亡くなる
末子・新城公主を出産した後に病気を患います。
2年間の闘病の末、636年に36歳の若さで亡くなりました。
文徳は皇后に贈られる諡号の中で最高位です。
長孫皇后がいかに愛された皇后だったか、諡号からも伝わりますね。
残した女則の内容は?
長孫皇后が女性のあるべき姿を書いた女則。
亡くなる前、長孫皇后は知人に女則を託しました。
託された知人は、長孫皇后が亡くなった後に女則の存在を明かしました。

長孫皇后が生きている間に女則の存在を明かさなかった理由は…
「長孫皇后が『他人に見せるほどのものではない』と言った」から。
長孫皇后がいかに謙虚な人物だったかが分かりますね。
女則は全部で10巻ありますが、残念ながら現存していません。
そのため、詳しい内容は分かりませんが、長孫皇后の発言やエピソードから内容を推測することができます。
「皇后は政治に関与するべきではない」
殷の紂王が妻・妲己の尻に敷かれて、国を滅ぼしてしまった。
封神演義でも取り上げられる有名な話ですね。
長孫皇后は政治に関与することを嫌い、陰で太宗を支え続けました。
「皇后の一族は要職を占めるべきではない」
前漢の初代皇帝・高祖(劉邦)は妻・呂后の一族を要職に任命し、呂氏一族は大きな権力を握りました。
高祖が崩御すると、皇太后になった呂后は邪魔者を次々に排除。
呂氏一族の権力を更に強化します。
その結果、呂氏一族は皆殺しにされました。
呂后と同じ末路をたどりたくなかった長孫皇后。
太宗が長孫無忌を要職に任命しようとした時、長孫皇后は要職を兼任させないようお願いしました。
側室の子どもを大事に育てた
当たり前ですが、当時の医療技術はあってないようなもの。
・授かった子どもが生後すぐに亡くなる
・子どもを産んだ後に生母が亡くなる
ことは珍しくありませんでした。
長孫皇后は難産で亡くなった側室の子どもを引き取り、自分の子どもと同じように育てました。
側室の体調を気遣った
後宮では皇帝の寵愛を争って、お互いに蹴落とし合うことが日常茶飯事。
ところが、長孫皇后は蹴落とすどころか、病気を患った側室に自分の薬を飲ませ、回復を願いました。
側室が産んだ子どもを育て、側室の健康を願った長孫皇后。
長孫皇后がトップに立っていた後宮では、女性間の争いがありませんでした。
太宗に反対意見を述べた臣下をかばった
太宗の側近・魏徴は200回以上も諫言し、太宗はその諫言を受け入れたといわれています。
でも、太宗が魏徴の諫言の全てを素直に受け入れていたわけではありません。
魏徴の諫言が太宗の怒りに触れた時、太宗は魏徴を処刑しようとしました。
すると、長孫皇后は、
・死を覚悟して諫言するのは、魏徴がそれだけ忠実な臣下である
・陛下(太宗)がそれだけ尊敬できる君主である
からだと言って、太宗と魏徴の二人をもちあげて、二人の仲を修復しました。
長孫皇后は太宗の臣下として発言しようと、臣下が朝廷で着る朝服にわざわざ着替えました。
残した遺言の内容は?
謙虚で、家族思いで、側室も大切にしてきた長孫皇后。
そんな長孫皇后が残した遺言は、どのような内容なのでしょうか。
葬儀は簡素に
聖人として名を残している者は皆、大規模な葬儀を行っていない。
そう言って、葬儀は簡素に済ませるように求めました。
大きな棺は不要
死んだ姿を見られなければいい。
そう言って、自分の身体のサイズに合った棺を使うように求めました。
また、葬儀で使用する道具は質素なものを選ぶように求めました。
房玄齢を見捨ててはいけない
いつも太宗のそばにいた長孫皇后は側近の功績や性格をよく知っていました。
長孫皇后が遺言を書いている時、側近・房玄齢は太宗の怒りに触れ、自宅謹慎を命じられていました。
そこで、長孫皇后は房玄齢の功績を話し、また、見捨てないように求めました。
後に、房玄齢は杜如晦と共に、貞観の治という国が安定した時代を築きました。
長孫皇后が太宗と房玄齢の仲を取りもっていなければ、貞観の治は訪れなかったかもしれません。
まとめ:太宗が名君なのは長孫皇后の内助の功があってこそ
長孫皇后の生い立ち、残した女則と遺言の内容を紹介しました。
13歳で唐の第2代皇帝・太宗(李世民)と結婚した長孫皇后。
唐の第3代皇帝・高宗(李治)を含む7人の子どもを出産しましたが、36歳の若さで亡くなりました。
長孫皇后が書いた女則は残念ながら現存していません。
ただ、長孫皇后ならではの気遣いについて記されていたと考えられます。
太宗が中国史上有数の名君だといわれるのは、長孫皇后は内助の功があってこそかもしれませんね。
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