唐の第18代皇帝・武宗は会昌の廃仏と呼ばれる仏教弾圧を行ったことで有名です。
何故、武宗は仏教を弾圧したのでしょうか。
具体的に、仏教をどのように弾圧したのでしょうか。
武宗の生涯、武宗が行った会昌の廃仏を紹介します。
武宗ってどんな人?
武宗は814年生まれで、唐の第15代皇帝・穆宗と母・韋貴妃の間に、第5皇子として誕生しました。
名前は李瀍(てん)といいます。
皇帝に即位する
840年、第17代皇帝・文宗が崩御しました。
一般的には、皇帝が崩御したら、その崩御した皇帝の子どもが後を継いで即位します。
でも、文宗の子どもは皆、既に亡くなっていたため後継ぎがいませんでした。
李瀍は宦官・仇士良に擁立され、第18代皇帝・武宗として即位しました。
道教を熱心に信仰する
武宗は李徳裕を宰相に登用して、宦官勢力を抑制し、宦官に実権を奪われていた朝廷の立て直しを図りました。
ここまでは良かったんですが、時として、宗教は人を惑わすもの。
841年、道教を信仰していた武宗は、81人の道士を宮廷に呼び出しました。
道士が81人もいれば、一人は武宗のお気に入りがいるもの。
武宗から特に気に入られた道士・趙帰真は、武宗に信頼されているのをいいことに、廃仏を勧めようと企みました。
趙帰真は僧と対決させてほしいと上奏しました。
趙帰真と出会う前から、道教を信仰していた武宗。
趙帰真から教えを説かれた武宗は、道教にますます熱心になっていました。
もし、趙帰真が僧を言い負かすことができれば、国中に道教が広まるかもしれません。
利害が一致した武宗は、趙帰真の願いどおり、僧を宮廷に呼び出して、趙帰真と全面対決させました。
武宗は僧・知玄法師を宮廷に呼び出しました。
僧との全面対決を自ら望んだ趙帰真。
武宗は趙帰真が知玄法師を論破できるものだと思っていました。
会昌の廃仏を行う
でも、趙帰真は知玄法師を論破できず、反対に、知玄法師に論破されてしまいました。
知玄法師に恥をかかされた趙帰真は躍起になって、廃仏を上奏しました。
結果、845年、武宗は会昌の廃仏と呼ばれる廃仏を行いました。
ところが、廃仏を行い始めた翌年の846年、丹薬中毒により、33歳で崩御しました。
会昌の廃仏とは?
紹介したように、会昌の廃仏は武宗が行った廃仏を指します。
廃仏といっても、実際に排斥の対象となったのは、仏教だけではありません。
当時、長安で盛んに信仰されていたマニ教、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教も排斥の対象となりました。
道教に熱心だった武宗は道教を保護し、また、国中に広めようと、仏教を弾圧しました。
還俗した尼僧は26万500人、民に編入した者は15万人にも及び、正式な手続きを行わずに僧になった私度僧、年少僧を追放しました。
846年に武宗が崩御したことにより、仏教弾圧は収束しました。
まとめ
武宗の生涯、武宗が行った会昌の廃仏を紹介しました。
道教を信仰していた武宗は、お気に入りの道士・趙帰真の上奏を受けて、「会昌の廃仏」と呼ばれる廃仏を行いました。
寺4600箇所を廃止し、26万500人もの尼僧を還俗させ、15万人を民に編入しましたが、846年、武宗が崩御したことにより、廃仏は終わりました。
武宗は物事を冷静に判断できる性格だったと伝えられていますが、道教と趙帰真は武宗を虜にしてしまいました。
いつの時代も、宗教の争いは起こるものですね。
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