徳川家康の親は松平広忠と於大の方!生き別れ、死別となった理由

鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギスという句のとおり、徳川家康は辛抱強い性格の持ち主でした。
もしかしたら、徳川家康の辛抱強さは幼少期に母と生き別れ、父と死別したという悲しい経験が生み出したのかもしれません。

徳川家康の父・松平広忠と母・於大の方について簡単に、また、徳川家康が親と生き別れ死別となった理由を紹介します。

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徳川家康の親は松平広忠と於大の方!

徳川家康の親はどのような人物だったのでしょうか。

松平広忠

大永6年(1526年)、松平広忠は岡崎城(愛知県岡崎市)の城主だった松平清康と青木貞景の娘の間に誕生しました。

青木貞景の娘ではなく、松平昌安(信貞)の娘の間に生まれたという説もあります。

幼名は徳川家康と同じ竹千代です。

10歳で父を失う

天文4年(1535年)、尾張の織田信秀と戦っていた松平清康は、尾張の森山(守山)に構えていた陣中で、家臣・阿部正豊に斬り殺されてしまいました。

おゆう
おゆう

織田信秀は織田信長の父です。

松平広忠はわずか10歳で父を失うこととなりました。

松平清康は三河を平定するほどの権勢を振るっていましたが、松平清康の死をきっかけに松平氏の権勢は衰えてしまいました。

それから3ヶ月が経った頃、尾張の織田信秀が攻めてきました。

この時、松平広忠の手勢は800。
織田信秀の率いる兵は8000で、兵力の差は歴然としていましたが、死闘の末、松平広忠は織田信秀と和睦し、岡崎城を守り抜きました。

大叔父・松平信定に追い出される

松平清康の後継ぎは息子である松平広忠ですが、松平広忠が幼かったため、桜井城(愛知県安城市)にいた大叔父・松平信定が反対し、家督争いが起こりました。

やがて、松平信定は岡崎城を占拠して、松平広忠の命を狙うまでになりました。
松平広忠は松平信定から身を守るために岡崎城を出ました。

今川義元を頼る

東条城(愛知県西尾市)で城主を務めていた吉良持広の手を借りて、松平広忠は伊勢に逃げました。

やがて、吉良氏が織田氏と協力し合うようになると、松平広忠は吉良家を離れ、織田氏と敵対する駿河・遠江の今川義元を頼りました。
天文5年(1536年)9月、今川義元の支援を受けて、松平広忠は牟呂城(愛知県西尾市)に入りました。

すけさん
すけさん

松平広忠が近くまで戻ってきたこと、また、意外にも松平広忠を支持する者が多かったことから、松平信定は焦り、牟呂城に攻め入りました。

でも、松平信定が牟呂城を攻めている最中に岡崎城で行われていたのは、松平広忠を岡崎城に戻すためにはどうしたらいいかという会議。

松平信定の知らないところで、松平広忠を支持する者がこっそり動いていました。

今川義元に仕える

天文7年(1538年)、松平信定が亡くなりました。
身を隠す必要がなくなった松平広忠は、松平信孝や松平康孝の協力を得て、岡崎城を取り戻し、帰還しました。

こうして、松平広忠は晴れて岡崎城主となりましたが、織田氏や今川氏と戦って勝てるだけの力をもっていません。
そこで、松平広忠は今川義元に引き続き仕えると決め、正式に今川家臣となりました。

於大の方

享禄元年(1528年)、於大の方は緒川城(愛知県知多郡)と刈谷城(愛知県刈谷市)の城主だった水野忠政と継室・於富の方(華陽院)の間に誕生しました。

松平家との関係をより強固にするべく、水野忠政は於大の方を松平広忠に嫁がせました。

おゆう
おゆう

当時は珍しくありませんが、松平広忠と於大の方は政略結婚だったんですね。

生き別れ、死別となった理由

天文11年(1542年)12月26日、松平広忠と於大の方は徳川家康を授かりました。

子どもをなかなか授からず、鳳来寺に参拝した二人にとって、徳川家康は何よりも大事な存在だったと思います。

ところが、間もなく、徳川家康は親と離れ離れになってしまいます。

徳川家康が親と生き別れ、死別となった理由をみていきましょう。

生き別れとなった理由

天文12年(1543年)、於大の方は妙心寺に参拝し、徳川家康が健やかに育つよう、長生きするように祈りました。

ところが、水野忠政の死をきっかけに、於大の方の運命がガラリと変わります。
於大の方の兄・水野信元は家督を継ぐと、松平家の仕えていた今川家を裏切って、織田家に寝返ってしまいました。

天文13年(1544年)、松平広忠は松平家を守るため、於大の方と離縁することを決意。
於大の方は刈谷城に戻り、刈谷城の東にある椎の木屋敷でひっそりと暮らすことになりました。

松平広忠と於大の方が離縁したきっかけは、紹介したように、水野信元の裏切りです。
でも、水野信元の義父である松平信定と松平広忠が家督を争っていたことから、水野信元と松平広忠の仲が悪かった、敵対関係にあったともいわれています。

於大の方が刈谷城に戻ったことにより、徳川家康はわずか2歳で於大の方と生き別れとなりました。

於大の方は水野信元に従って、坂部城(愛知県知多郡)の城主・久松長家(俊勝)と再婚しました。
久松長家との間に3男3女をもうけましたが、徳川家康を気遣って連絡を取り続けました。

死別となった理由

天文16年(1547)年、織田信長の父・織田信秀が三河に侵攻しました。

松平広忠は今川義元に援軍を要請しました。
すると、援軍を送る代わりに、今川義元は徳川家康を人質として差し出すように要求しました。

こうして、人質となるべく、徳川家康は今川家に向かいましたが、その2年後の天文18年(1549)年、松平広忠は24歳の若さでこの世を去りました。

松平広忠の亡くなった理由は、
・織田家が送り込んだ刺客・岩松八弥に殺された
・病死
・一揆によって殺された
など、諸説あります。

まとめ

徳川家康の父・松平広忠と母・於大の方について簡単に、また、徳川家康が親と生き別れ死別となった理由を紹介しました。

徳川家康は2歳で母と生き別れ、7歳で父と死別してしまいました。

幼くして母と生き別れ、父と死別した徳川家康は、どのような気持ちで自らを奮い立たせ、戦国時代を生き抜いたのでしょうか。

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