徳川家康が織田家、今川家の人質となった背景をわかりやすく解説

江戸幕府を開いたあの徳川家康が、幼少期に今川家で人質生活を送っていたことは有名な話。

でも、今川家で人質生活を送る前に、徳川家康は織田家でも人質生活を送っていました。

何故、徳川家康は織田家と今川家で人質生活を送っていたのでしょうか。

徳川家康織田家今川家人質となった背景をわかりやすく解説します。

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そもそも、何故、徳川家康は人質になったの?

徳川家康が織田家、今川家の人質となった背景を紹介する前に、

そもそも、何故、徳川家康は人質になったの?

と疑問に思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。

徳川家康が人質となった背景には、徳川家康の出身である松平家の弱さがあります。

徳川家康の父・松平広忠は岡崎城主・松平清康のもとに生まれ、ゆくゆくは岡崎城主となる予定でした。

ところが、松平広忠が武将、城主として一人前になる前に、松平清康はこの世を去ってしまいます。
天文4年(1535年)、松平広忠がわずか10歳の時に、家臣・阿部正豊に斬り殺されてしまったんです。

坊っちゃん
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父を失い、途方に暮れる松平広忠に、更なる試練が訪れます。

「10歳の少年には、城主は務まらない」と言って、大叔父・松平信定が松平広忠を追い出します。

松平広忠は伊勢に逃げ、天文7年(1538年)、松平信定が亡くなったのを機に、岡崎城に帰還しました。

13歳で岡崎城主となった松平広忠。

もちろん、松平広忠が岡崎城主となることを長い間待ち望んでいた家臣もいました。
ただ、中には、松平信定が亡くなって混乱している者もいました。

天文10年(1541年)、刈谷城主の水野忠政の娘・於大の方(伝通院)と結婚。
翌年には、徳川家康が誕生しました。

岡崎城内が落ち着く間もなく、尾張の織田信秀が三河に侵攻。

岡崎城内の兵だけでは勝つ見込みがない…

そう判断した松平広忠は、織田氏と敵対していた駿河・遠江の今川氏に援軍を要請しました。

今川義元は援軍を送る代わりに徳川家康を人質として送るよう、交換条件を提示。

天文16年(1547年)、松平広忠は松平家を守るために仕方なく、徳川家康を人質として差し出しました。

徳川家康が織田家、今川家の人質となった背景

松平広忠が今川義元の交換条件に応じ、徳川家康は人質として今川家に差し出されることとなりました。

こうして、徳川家康は今川家の人質となったのです。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

というわけにはいきません。

徳川家康が今川家の人質だったというのは有名な話。
でも、実は、今川家の人質となる前に、織田家の人質になっていました。

売り飛ばされて織田家の人質となる

人質となるべく、今川家へ向かうこととなった徳川家康。

わずか6歳の徳川家康が一人で今川家にたどり着くことは不可能です。
そこで、今川義元は田原城主・戸田康光を松平家に送り、徳川家康を今川家に連れてくるように命じました。

天文14年(1545年)、松平広忠は戸田康光の娘・真喜姫(田原御前)と再婚しました。
つまり、戸田康光は松平広忠の義父で、徳川家康の祖父にあたります。

当初、宝飯郡西郡(愛知県蒲郡市)から三河湾を渡り、渥美半島に上陸して今川家に向かう予定でした。

ところが、戸田康光は今川義元を裏切り、尾張国熱田に上陸して、織田家に徳川家康を売り飛ばします。

坊っちゃん
坊っちゃん

大久保彦左衛門の書いた「三河物語」には、「お金目当てだった」と書かれています。

織田家がお金を払ってまで徳川家康を手に入れたかったのは、松平家を従属させるため。

「徳川家康を返してほしければ、織田家に従え!」と言って、織田信秀は松平広忠を脅迫しました。

ところが、松平広忠の返事はノー。

「殺せばいい。子ども一人のために、隣国の信用を失うわけにはいかない」と返事します。

この松平広忠の返事は、織田信秀を刺激するどころか感銘を与え、松平広忠を真の武士として称えました。

徳川家康は殺されることなく、織田家の菩提寺・万松寺(愛知県名古屋市)に預けられます。
そして、織田家の人質として暮らしました。

人質交換をして今川家の人質となる

一方、人質として今川家に迎える予定だったとはいえ、織田家に徳川家康を奪われた今川義元は激怒。

天文16年(1547年)、裏切った戸田康光のいる田原城を陥落させました。

その後、太原雪斎に命じて安祥城(愛知県安城市)を攻め落とします。
そして、織田信秀の子ども・織田信広を捕らえて、今川家の人質としました。

天文18年(1549年)11月、織田信秀と今川義元は人質を交換。
こうして、徳川家康は今川家の人質となりました。

おゆう
おゆう

松平広忠が今川家に徳川家康を送った目的は、今川氏の力を借りたかったから。

でも、徳川家康が織田家から今川家に移った8ヶ月前の天文18年(1549年)3月。
松平広忠は24歳の若さで既に亡くなっていました。

徳川家康は人質交換という形で今川家に入ることとなりました。
ただ、松平広忠の亡き今、徳川家康が今川家の人質になる理由はなかったんですね。

まとめ:徳川家康は祖父に売り飛ばされていた!

徳川家康織田家今川家人質となった背景をわかりやすく解説しました。

幼くして父・松平清康を失った松平広忠は、松平家を守るために、今川家に徳川家康を差し出しました。
でも、今川家を裏切った戸田康光によって、徳川家康は織田家に売られ、織田家で人質生活を送りました。
その後、今川家と織田家の間で人質交換が行われ、徳川家康は今川家で人質生活を送りました。

徳川家康を人質として預かっていた織田信秀と今川義元。
徳川家康が将来大物になると予想できたのでしょうか。

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