・天正2年(1574年)に勃発した第一次高天神城の戦い
・天正9年(1581年)に勃発した第二次高天神城の戦い
の二度にわたって、徳川家康と武田勝頼は激戦を繰り広げます。
この激戦の中、徳川家臣と武田家臣の間で感動するエピソードが誕生していました。
① 高天神城の石牢に幽閉された大河内政局(まさもと)
② 大河内政局を支えた武田家臣・横田尹松
の二人を紹介します。
高天神城の石牢に幽閉された大河内政局
第一次高天神城の戦いで、武田勝頼率いる2万5000人の兵から攻撃を受け続けた高天神城。
徳川家康に救援を要請するも援軍は来ず、西の丸は破壊され、兵糧は不足し、徳川軍は追い詰められました。
天正2年(1574年)6月14日は、高天神城はもはや主郭を残すのみ。
勝ち目がないと判断した高天神城主・小笠原長忠は、兵全員の命を助けることを条件に開城します。
徳川軍は武田勝頼が約束を守ってくれると信じるしかありませんでした。
ところが、徳川軍の士気が低い中、大河内政局はただ一人「降伏しない」と言って、抵抗し続けました。
徳川家康が幼少期に今川家の人質となった時、大河内政局は徳川家康に付き添ってお世話をしました。第一次高天神城の戦いでは、軍目付(いくさめつけ)を務めていました。
武田勝頼は約束を守り、徳川軍の兵全員の命を助け、今後の身の振り方を自由に選択させます。
ところが、頑固な大河内政局に腹を立て、大河内政局を石牢に幽閉してしまいました。
その後、高天神城将が小笠原長忠から武田家臣・岡部元信に変わり、徳川軍が高天神城から退去します。
それでも、大河内政局の気持ちが揺らぐことはありませんでした。
大河内政局が石牢を出て、幽閉生活を終えることができたのは7年後。
徳川家康が武田勝頼を破った天正9年(1581年)の第二次高天神城の戦いの後です。
7年間もの幽閉生活を送っていた大河内政局は視力を失い、歩行が困難になっていました。
また、大河内政局はまだ50歳にも達していませんでしたが、70歳を超えて見えるほど老いていました。
徳川家康に忠義を誓った大河内政局は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで出陣し、討死しました。
大河内政局をこっそり支えた横田尹松
7年もの間、高天神城の石牢で幽閉生活を送っていた大河内政局。
紹介したように、救出された時、大河内政局は視力を失い、歩行が困難になっていました。
武田家臣・横田尹松(ただまつ)が大河内政局をこっそり支えていたからです。
横田尹松は天文23年(1554年)生まれで、武田の五名臣の一人に数えられる横田高松の孫です。
第一次高天神城の戦いで大河内政局が幽閉された時、横田尹松は23歳。
天正9年(1581年)時点で大河内政局は50歳にも達していません。
大河内政局は40歳前後で幽閉されたのではないかと予測できます。
幽閉されても、「絶対に降伏しない!」と言い張る大河内政局に心を打たれた横田尹松。
横田尹松は親子ほど年の離れた大河内政局に食事を届けるなど、さまざまな気遣いをしました。
一方で、第二次高天神城の戦いで不利な戦況となり、城将・岡部元信が武田勝頼に救援を要請する中、
救援に来ないでください。
と逆の内容の書状を武田勝頼に送りました。
・武田勝頼に余力がないこと
・高天神城にこだわっている場合ではないこと
を知っていたからです。
徳川軍が高天神城内に攻め込むと、横田尹松はなんとか脱出して武田勝頼の元へたどり着きます。
武田勝頼は生きて帰った横田尹松に太刀を贈ろうとしましたが、
負けて帰ったのに、褒美をもらうわけにはいきません
と言って、横田尹松は断りました。
武田勝頼に忠義を尽くした横田尹松。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、徳川家臣となります。
横田尹松は大河内政局と同じ主君に仕えることになりました。
横田尹松は関ヶ原の戦いや大坂の陣などで出陣。
大坂夏の陣では、激戦を見たがる徳川家康の安全を確保するために、
もっと激しく戦っている場所があります!
と嘘をついて、安全な場所へ連れ出しました。
寛永12年(1635年)、横田尹松は82歳で亡くなりました。
まとめ:大河内政局と横田尹松を繋いだのは忠誠心
① 高天神城の石牢に幽閉された大河内政局
② 大河内政局を支えた武田家臣・横田尹松
の二人を紹介しました。
横田尹松は武田勝頼にも、徳川家康にも忠義を尽くして仕えました。
横田尹松の忠真心は、大河内政局の影響を受けたのかもしれませんね。
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