徳川家康が伊賀越えを行った理由、同行メンバーと迎えた3つのピンチ

徳川家康の人生三大危機に数えられる伊賀越え。
何故、徳川家康は危険を冒してまで、伊賀越えをしたのでしょうか。

徳川家康伊賀越えを行った理由、同行メンバーと迎えた3つのピンチを紹介します。

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伊賀越えとは?

伊賀越えとは、関西から越後や信濃、三河へ移動する時に伊賀を経由することを指します。

伊賀越えを行った歴史上の人物で、最も有名なのが徳川家康です。

おゆう
おゆう

大河ドラマ「真田丸」では、内野聖陽さんが伊賀越えをする徳川家康を熱演。
伊賀山中を駆け抜けるシーンは、徳川家康の切羽詰まった様子がよく表現されていました。
ドキドキ、ハラハラを通り越して、大笑いする視聴者も多かったのだとか。

「真田丸」の主人公は真田幸村。
でも、徳川家康やその周りの戦国武将を紹介するにあたって、伊賀越えは欠かせない出来事なんですね。

徳川家康が伊賀越えを行った理由

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀。
その後、二条御所に進軍し、織田信長の長男・織田信忠を自害に追い込みました。

更に、明智光秀は堺に滞在していた徳川家康を討とうと、兵を送ります。

織田信長が亡くなったと知った豪商・茶屋四郎次郎は、京都から徳川家康のもとへ急いで駆けつけました。

茶屋四郎次郎は、
・織田信長が明智光秀に討たれたこと
・徳川家康をも討とうと兵を送っていること
を報告しました。

・良き同盟相手を失ったショック
・明智光秀に対する恐れ
から、徳川家康は京都市東山区にある浄土宗の総本山・知恩院に駆け込み自害を試みます。

でも、本多忠勝、井伊直政をはじめ、家臣から岡崎城に帰還するよう説得されました。

徳川家康は岡崎城へ帰ることにしますが、既に明智軍が街道に張り込み、退路を閉ざされていました。

そこで、伊賀出身の徳川家臣・服部正成(半蔵)が

伊賀山中を越えて、岡崎城に帰ってはどうでしょうか?

と提案。

こうして、徳川家康は伊賀越えをすることとなりました。

同行メンバーと迎えた3つのピンチ

紹介したように、伊賀越えは徳川家康の人生三大危機の一つに数えられています。

① 家臣まで蜂起した三河一向一揆
② 武田信玄に大敗し、多くの家臣を失った三方ヶ原の戦い
と並ぶ危機・伊賀越えで、徳川家康は3つのピンチを迎えました。

織田信長の家臣・穴山信君が殺された

本能寺の変が起きた時、徳川家康は堺で観光を楽しんでいました。

三河に本拠地を置く徳川家康にとって、堺は知らない土地。
徳川家康に配慮した織田信長は、
① 長谷川秀一
② 西尾吉次
③ 穴山信君
の3人の家臣を徳川家康に同行させました。

実は、穴山信君は織田信長と徳川家康が長年にわたって戦ってきた武田信玄・勝頼親子の元家臣。
武田氏が滅亡する直前に、穴山信君は織田信長に寝返りました。

この堺観光は穴山信君が織田信長に寝返ってからわずか3ヶ月後のこと。
穴山信君は徳川家康を信用しておらず、伊賀越えでは徳川家康一行から少し離れて行動していました。

山城の宇治田原に差し掛かった頃、穴山信君は一揆を起こした郷民の襲撃を受け殺されてしまいました。

一揆に巻き込まれて殺された他、
・落ち武者狩りに襲われて殺された
・明智光秀の命を受けた者が穴山信君を徳川家康と勘違いして殺した
などの説があります。

穴山信君が命を落とした本当の理由は判りません。
でも、徳川家康と一緒に行動していれば、穴山信君が命を落とすことはなかったかもしれません。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

穴山信君が殺されたからこそ、徳川家康は命を落とさなかったのかもしれませんね。

加太峠で一揆に襲われた

堺から山城の宇治田原、近江の甲賀、御斎峠を経て、本能寺の変から2日目には伊賀に入った徳川家康。

御斎峠は急な下り坂が多く、
・転倒しやすかったこと
・体力を消費しやすかったこと
・見晴らしが良く、明智光秀の手勢や山賊、一揆にみつかりやすかったこと
から、逃避するルートには向いていません。そのため、御斎峠を通らず、甲賀の和田から伊賀の柘植に入ったのではないかとも考えられています。

伊賀の柘植を経て、加太峠に差し掛かった頃、徳川家康は一揆に襲われてしまいます。

甲賀の郷士・山口定教が一揆を追い払っている隙に、徳川家康一行は伊勢の長太へたどり着きました。
その後、船に乗って伊勢湾を渡り、三河へ入って、岡崎城に無事戻りました。

徳川家の滅亡する可能性があった

徳川家康は織田家臣・長谷川秀一、西尾吉次、穴山信君の他、徳川家臣34人と共に伊賀越えを行いました。

徳川家臣34人の中には、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の徳川四天王が含まれていました。

もし、伊賀越えで徳川四天王を失っていたら、徳川家康が江戸幕府を開くことはなかったかもしれません。

数々の戦場をくぐり抜けてきた徳川家臣。

落ち武者狩りや一揆なんて簡単に討つことができたのでは?

と考える方もいらっしゃると思います。

実際、徳川家康一行は200人程度を討ち取りました。
一方で、不要な戦いを避けようと、徳川家康は金品を渡して事を穏便に済ませることもありました。

主君・織田信長を失った西尾吉次は徳川家康の家臣となりました。

まとめ:徳川家康は明智勢、落ち武者狩り、一揆に狙われていた!

徳川家康伊賀越えを行った理由、同行メンバーと迎えた3つのピンチを紹介しました。

・織田信長を討った明智光秀に命を狙われた
・退路を閉ざされた
徳川家康は伊賀越えを決意。

道中、落ち武者狩りや一揆に襲われますが、服部正成をはじめとした家臣に助けられ、岡崎城へ戻りました。

徳川家康が駆け抜けた伊賀には名阪国道が通っていて、周遊しやすくなっています。
奈良県や三重県を訪れた際に、伊賀まで足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

大河ドラマ「どうする家康」をもっと楽しむなら、こちらのガイドブックがオススメです。

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