
備前国の戦国大名・宇喜多直家。
豊臣秀吉の中国攻略に備えて、宇喜多直家は毛利家と手を結びます。
ところが、その翌年には、毛利家を裏切り、織田信長と手を結びました。
① 宇喜多直家が毛利家を裏切った理由
② 宇喜多直家が梟雄と呼ばれる理由
を紹介します。
宇喜多直家はなぜ毛利家を裏切った?
天正6年(1578年)、織田信長の命令を受けた豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)は中国攻略を開始。
宇喜多直家は備前国を中心に、備中国・美作国の一部を支配していました。

備前国は畿内から毛利輝元の治める安芸国までの通り道。
豊臣秀吉による侵攻を恐れた宇喜多直家は毛利輝元と同盟を結んで対抗します。
ところが、翌年6月、宇喜多直家は毛利輝元を裏切り、織田信長に寝返りました。
宇喜多直家はなぜ毛利家を裏切ったのでしょうか。
理由は2つあります。
毛利輝元が上洛を断念したから
元亀4年(1573年)7月の槇島城の戦いで織田信長に敗れた将軍・足利義昭。
足利義昭は毛利氏の治める備後国の鞆に亡命し、庇護するように求めます。
足利義昭を迎えた毛利輝元は第一次木津川口の戦いや上月城の戦いで織田軍に勝利。
天正7年(1579年)1月、勢いに乗った毛利輝元は上洛を検討します。
ところが、伯父・小早川隆景に反対され、毛利輝元は上洛を断念しました。
上洛にはお金と軍隊が必要。
京にたくさんの兵を連れて行けば、その間に自国が侵攻される可能性があったからです。

祖父・元就も「われ、天下を競望せず」と言い残していますからね。
毛利輝元の上洛を止める選択は正しかったのかもしれません。
・上洛を取りやめるなんて、毛利氏には力がないのかもしれない
・毛利氏は備前国より東に進出するつもりがないのかもしれない
という印象を与え、不信感を抱かせてしまいました。
毛利輝元と手を結んで、自分の領地を拡大しよう。
そう考えていた宇喜多直家は毛利家に失望しました。
織田信長から備中国・美作国の領有を確約された
紹介したように、宇喜多直家は備前国を中心に、備中国・美作国の一部を支配していました。
もし、織田信長に敗れたら、宇喜多直家は自国も命も失ってしまいます。
宇喜多直家の不安を感じ取ったのか、織田信長は備前国・美作国の領有を確約。
自国を失いたくない宇喜多直家は織田信長に寝返ることにしました。
(岡山城は宇喜多直家が前身となる石山の城を築き、子・秀家が完成させた。)
宇喜多直家が織田信長に寝返って4ヶ月後、二人の和睦がようやく成立します。
和睦に4ヶ月間もかかった理由は、織田信長が宇喜多直家を信用できなかったからです。
和睦が成立すると、宇喜多直家の甥・基家が名代として織田信長の長男・信忠のもとに参上。
こうして、宇喜多氏は正式に織田政権の傘下に入りました。

毛利輝元を裏切った宇喜多直家は早速、織田方として毛利軍と戦います。
天正8年(1580年)は宇喜多軍が優勢でしたが、翌年は毛利軍が優勢。
美作国の岩屋城や宮山城を奪われます。
更に、備前国と美作国の交通の要である忍山城を奪われてしまいました。
織田信長は敗戦続きの宇喜多直家に対して怒りましたが、

毛利軍に勝利すれば、所領を加増する!
と言って、褒美をちらつかせ、宇喜多直家を励ましました。
しかし、敗戦続きの宇喜多直家は体調を徐々に崩し、戦いの最中に岡山城で亡くなりました。
宇喜多直家が梟雄と呼ばれる理由は?
梟雄とは、残忍で勇猛な人、狡猾な人を指します。
宇喜多直家は何故梟雄と呼ばれるのでしょうか。
その理由は宇喜多直家の度重なる裏切りにあります。
主君・浦上宗景の追放
宇喜多直家が裏切ったのは、紹介した毛利輝元だけではありません。
永禄12年(1569年)、足利義昭に従わないことを理由に、宇喜多直家は主君・浦上宗景に反旗を翻します。
その後、足利義昭の仲裁で和睦しますが、この時宇喜多直家は浦上氏から独立しました。
天正2年(1574年)、浦上宗景と対立していた毛利氏と手を結び、宇喜多直家は浦上宗景を追い詰めました。
義理の息子・松田元賢を暗殺
永禄5年(1562年)、宇喜多直家の娘と金川城主である松田元輝の息子・元賢が結婚。
宇喜多家と松田家は姻戚関係を結びました。
永禄10年(1567年)、宇喜多直家と三村家親の間で明善寺合戦が勃発。

姻戚関係である松田家から援軍がやってくる。
宇喜多直家はそう思っていましたが、松田家は援軍を出しませんでした。
三村家親に勝利したものの、宇喜多直家は松田家が援軍を出さなかったことを根に持っていました。
その翌年、金川城周辺で鹿狩りが行われます。
すると、宇喜多家臣が松田家臣・宇垣与右衛門を鹿と間違って射殺。
宇喜多家と松田家の関係が崩れ始めました。

宇喜多直家は伊賀久隆を誘い、松田元輝・元賢親子の排除に乗り出します。
伊賀久隆は松田元輝・元賢のいる金川城を包囲。
松田元輝は伊賀軍の鉄砲で射殺され、松田元賢は敵陣に入って討ち死にしました。
松田元賢が亡くなったと知った宇喜多直家の娘は自害しました。
伊賀久隆の暗殺
松田親子の排除に成功し、平穏な生活を送っていた宇喜多直家と伊賀久隆。
ところが、天正7年(1579年)に宇喜多直家が織田信長に寝返ったことによって、状況が急変。
伊賀久隆の治める虎倉城は毛利氏との領地の境界にあり、侵攻の脅威にさらされることになりました。
天正8年(1580年)4月14日、伊賀久隆が恐れていたとおり、毛利軍が虎倉城への進軍を開始。
伊賀久隆は死者を出すことなく、毛利軍に大勝しました。
ところが、天正9年(1581年)4月、伊賀久隆は急死します。
伊賀久隆の死因は毒死。
伊賀久隆の力を恐れた宇喜多直家が家臣・河原四郎右衛門尉に毒を盛らせたといわれています。
(宇喜多直家が祖父の弟・国定から奪った砥石城。)
その他、舅・中山信正、娘婿・浦上宗辰や後藤勝基、姉婿・谷川久隆なども手にかけたといわれています。
まとめ:宇喜多直家は目標達成のためには手段を選ばない!
① 宇喜多直家が毛利家を裏切った理由
② 宇喜多直家が梟雄と呼ばれる理由
を紹介しました。
宇喜多氏は第5代目当主・直家のもとで急発展するも、長男・秀家の代で没落しました。
宇喜多秀家に父・直家のような野心があれば、宇喜多氏は存続できたかもしれませんね。
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