
豊臣秀吉を陰から支えた弟・秀長。
豊臣秀長は内政、軍事、調整役全ての面で優れた手腕を発揮しました。
ただ、豊臣秀長はケチで蓄財家だったといわれています。
豊臣秀長がケチ、蓄財家といわれる理由、兄・秀吉に与えた影響を紹介します。
豊臣秀長がケチ、蓄財家といわれる理由
豊臣秀長がケチ、蓄財かといわれる逸話が3つあります。
材木の流用事件
織田信長のもとで船奉行を務めていた吉川平介という人物がいました。

伊賀越えをした徳川家康は伊勢から三河まで船で移動しました。
この船を用意したのが吉川平介だといわれています。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉が紀州を攻略すると、秀長の配下として紀伊国の統治にあたります。
紀伊の特産は木材。
紀伊湊には、木材がたくさん集まりました。

当時、豊臣秀吉は方広寺に大仏殿を建立中。
需要の高い熊野木材は高値で取引されていました。

そこで、豊臣秀長は藤堂高虎、羽田正親、吉川平介を山奉行に任命しました。
天正16年(1588年)、吉川平介は豊臣秀長の命令を受け、領内の木材を次々と伐採。
そのうち2万本を大坂で木材を販売し、その売却代金を着服してしまいます。
売却代金の着服は豊臣秀吉の耳に届き、同年12月吉川平介は大和西大寺で処刑されました。
当然豊臣秀長は家来の監督責任を問われます。
「多聞院日記」に「天下の面目を失った」と記載されるほど、この不祥事は全国に知れ渡りました。
翌年の正月、豊臣秀長が秀吉に挨拶をしようとしましたが、秀吉は会わなかったといわれています。
豊臣秀長自身が木材を流用したり、売却代金を着服したりしたわけではありません。
ただ、この材木の流用事件は、
・お金に執着をする家来を抱えていた
・家来が満足するような十分な報酬を与えなかった
という印象を与え、豊臣秀長はケチだというイメージがついたのではないでしょうか。
奈良貸し
奈良貸しとは、奈良の町人に対して金銭を強引に貸し付けた高利貸行為を指します。
高利貸というと、現代の消費者金融を思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
現代の消費者金融とは異なり、奈良貸しは当時の社会状況や豊臣政権の方針が色濃く反映されていました。
ただ、混乱しやすいため、こちらでは奈良貸しと記載します。
奈良貸しが初めておこなわれたのは、天正17年(1589年)10月。
豊臣秀長は奈良の町人に米一万石を貸し付けました。
もちろん、米そのものを貸し付けたわけではありません。
米四石を金子一枚に換算し、金子2500枚を貸し付けていました。

翌年の春には、この貸付金が滞りなく返済されました。
ただ、その後も豊臣秀長は奈良貸しを続けます。
豊臣秀長が亡くなった時、金子500枚の貸付金が残っていました。
この貸付金は豊臣秀吉が徳政令を出し、帳消しになりました。
当時豊臣秀吉は、
・朝鮮出兵(文禄の役)で使用する船を造る
・方広寺に大仏殿を建立する
など、莫大な資金が必要でした。
豊臣秀吉の補佐役である秀長はその資金を調達する役割を担っていました。

借金をしたくなくても借金をさせられ、法外な利息が設定される。
当時の奈良の町人はこの奈良貸しによって大きな負担を強いられました。
奈良貸しは豊臣秀長の個人的な行為ではありません。
得た利益の使い道を考えると、豊臣政権全体で進めていた金策といっても過言ではありません。
ただ、奈良貸しを始めたのは豊臣秀長。
強引にお金を集めた豊臣秀長はケチだと思われても仕方がないのかもしれませんね。
死後の莫大な蓄財
豊臣秀長は天正19年(1591年)に51歳の若さで亡くなります。
長谷川藤五郎が豊臣秀長の遺産を調査。
豊臣秀長が晩年を過ごした大和郡山城には、金子5万6000枚が保管されていました。

銀は二間四方の部屋に山積みで、数えるのが困難だったといわれています。
奈良貸しで得た利益を豊臣秀吉の天下統一事業に使ってもなお、金銀は秀長の手元に残りました。
豊臣秀長はケチだったに違いありません。
豊臣秀吉に与えた影響
紹介したように、豊臣秀長が得た利益は秀吉の天下統一事業に使われました。
具体的にどのような影響があったのでしょうか。
豊臣政権の経済力の強化
・鳥取城の兵糧攻めでは、因幡の米を買い占める
・備中高松城の水攻めでは、巨大な堤防を築く
など、豊臣秀吉が行った作戦には圧倒的な経済力が必要でした。
豊臣秀長がお金を集めたからこそ、秀吉は戦に勝ち続けることができました。
商業資本への投資
当時は年貢収入がメインでしたが、商業を活性化して利益を得る、財源の方針転換を図りました。
豊臣秀長は茶人・千利休と協力し、商業に積極的に投資しました。
乱世を生き抜くための危機管理
豊臣秀吉も弟・秀長も農民出身。
後ろ盾のない豊臣秀吉・秀長兄弟にとって、
・優秀な家臣を登用して、戦国の時代を生き抜く
・将来の天下人にふさわしい高い地位を維持する
ために、お金は必要不可欠なものでした。
豊臣秀長が蓄財に励んだのは、武士として当然の危機管理意識だったのかもしれません 。
まとめ:豊臣秀吉が天下人になったのは、秀長の節約あってこそ!
豊臣秀長がケチ、蓄財家といわれる理由、兄・秀吉に与えた影響を紹介しました。
奈良貸しによって利益を得ていた豊臣秀長。
豊臣秀吉の天下統一事業に充てても、大和郡山城には莫大な遺産がありました。
みなさんは豊臣秀長がケチだと思いますか?蓄財家だと思いますか?
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