
唐の第3代皇帝・高宗(李治)の妻・則天武后。
則天武后は政治手腕を発揮し、中国史上唯一の女帝になります。
ただ、晩年は張易之、張昌宗の二人の美少年におぼれ、政治は停滞してしまいました。
則天武后(武則天)を骨抜きにした張易之、張昌宗の生い立ちと最期を紹介します。
張易之とはどんな人?
高宗の死後、未亡人になった則天武后は薛懐義、沈南璆の二人の愛人を迎えます。
ところが、薛懐義を自ら処刑し、精神を患った沈南璆も失いました。
悲しみに暮れる則天武后に張易之を紹介したのは、娘・太平公主。
宮廷にやって来た張易之は20歳前後の美少年で、音楽に長けていました。
司衞少卿に任命される
神功元年(697年)、張易之は司衞少卿に任命されます。
張易之の母には、金品が次々と贈られました。

張易之の母は未亡人だったため、
「鳳閣侍郎・李迥秀と再婚するように」
と命令が出されました。
宮廷であっという間に大きな権力を手にした張易之。
武承嗣、武三思などの則天武后の親族をはじめ、高官は張易之の機嫌をとりました。
奉宸府のトップになる
久視元年(700年)、則天武后は控鶴府を奉宸府と改称し、張易之を奉宸令に任命しました。
奉宸府は文学を研究する施設で、奉宸令は奉宸府のトップです。
にもかかわらず、張易之は奉宸府で毎日宴会を開きました。

ある日、尚食奉御・楊元禧と張易之が口論になります。
「楊元禧は隋王朝の逆臣・楊素の一族。その子孫に官職を与えるのはふさわしくない」
と、張易之は則天武后に告げ口しました。
則天武后は出自にとらわれず、実力を重視して人材登用を行ってきました。
でも、則天武后は張易之の頼みをきいて、楊素の子孫全員を遠くに左遷してしまいます。
自らの地位と則天武后の寵愛を盾に、張易之はやりたい放題でした。
張昌宗とはどんな人?
張昌宗は張易之の弟です。
太平公主が張昌宗に声をかけたところ、張昌宗は兄を推薦。
こうして、張易之と張昌宗は兄弟そろって宮廷入りしました。
散騎常侍に任命される
太平公主が声をかけた張昌宗は当然美少年。
神功元年(697年)、張昌宗は散騎常侍に任命されました。
則天武后から兄弟そろって寵愛を受けた張昌宗と張易之。
二人は華やかな衣装を着て、則天武后から受ける寵愛を競い合いました。
宰相・魏元忠を排除する
宰相・魏元忠は張易之・昌宗兄弟の存在に危機感を抱いていました。
そこで、魏元忠は「張兄弟を近くに置かないように」と上奏します。

張昌宗は魏元忠を排除しようと、
「魏元忠が『皇太子・李顕が皇帝になるべきだ』と言っている」
と嘘をつきました。
則天武后は魏元忠を捕らえて、目の前で張昌宗と魏元忠双方の言い分を聞きました。
張昌宗は嘘をついている。
則天武后は魏元忠が無罪であると察しました。
それでも、張昌宗を失いたくなかったため、魏元忠を左遷しました。

その後、張昌宗の収賄が発覚します。
本来であれば免官しなければいけません。
ところが、則天武后は適当な理由をつけて、張昌宗の罪をゆるしました。
則天武后に寵愛された兄弟の最期
則天武后が高齢になると、宮廷内では後継者問題や権力争いが激化していきます。
張易之・昌宗の兄弟の権力は、則天武后の晩年に頂点に達しました。
ただ、「則天武后の死後、自分たちはどうなるのか」という不安が押し寄せてきます。
焦った張易之・昌宗兄弟は、則天武后の死後に頼れそうな仲間を集めてしまいました。

張易之・昌宗兄弟に不満を抱いていた高官にチャンスが訪れました。
「仲間を集めることは、則天武后に対してクーデターを企んでいる証拠だ」
今回ばかりは、則天武后も張易之・昌宗兄弟をかばいきれません。
則天武后が寝ている間に、宰相・張柬之の起こしたクーデターの中で張易之・昌宗兄弟は斬られました。
まとめ:張兄弟の高い地位と大きな権力はもろかった
生まれつきの端正な顔立ちで、則天武后から寵愛を受けてきた張易之と張昌宗。
その寵愛は則天武后が政務を放り出すほど。
でも、武に長けていなかった張兄弟の最期はあまりにもあっけないものでした。
張兄弟の手にした高い地位と大きな権力が不安定だったことがよくわかりますね。
中国時代劇を見て、則天武后に興味をもった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
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則天武后の心理状態が適度に描写され、小説のようにスラスラ読めます。
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