中国王朝において、皇族は誰よりも身分が高いと思っていませんか?
実は私、中国王朝に限らず、皇族は誰よりも身分が高いと思っていました。
えっ?違うの?
実は、南朝・梁では、皇族・蕭憺と一介の官吏・王峻が口喧嘩をし、蕭憺が黙ってしまったという出来事があったんです。
皇族・蕭憺と一介の官吏・王峻が口喧嘩した理由を、二人の生涯と共に紹介します。
蕭憺ってどんな人?
蕭憺は478年生まれで、斉で揚州(江蘇省揚州市)刺史を務めた父・蕭順之と母・呉氏の間に、11男として誕生しました。
9歳の時に、呉氏が亡くなり、同じく側室である陳氏に育てられました。
始興王に封じられる
498年に、斉の第6代皇帝・廃帝(東昏侯・蕭宝巻)が即位すると、廃帝は臣下を殺したり、民から略奪したりと暴政を敷きました。
このままでは国が危ないと判断した蕭衍(後の梁の初代皇帝・武帝)は、廃帝の弟・蕭宝融を擁立して、501年に挙兵しました。
擁立された蕭宝融は、蕭憺を相国従事中郎(参謀副官)に任命し、また、江陵(湖北省荊州市)で蕭憺の兄・蕭偉と共に留守を任せました。
廃帝が崩御し、蕭宝融が斉の第7代皇帝・和帝として即位すると、蕭憺は給仕黄門侍郎に任命されました。
ところが、巴東郡(重慶市)太守・蕭慧訓の子・蕭璝、巴西郡(重慶市)太守・魯休烈が反乱を起こしたため、蕭偉は蕭憺を雍州(寧夏回族自治区一帯)に派遣し、反乱の鎮圧にあたらせました。
手柄を立てた蕭憺は荊州(湖北省荊州市)刺史に任命されました。
502年4月、和帝から禅譲され、蕭衍は梁を建国して、初代皇帝・武帝として即位しました。
武帝のもとで、蕭憺は安西将軍の号を加授され、また、始興王に封じられました。
引き続き荊州刺史を務めていた蕭衍は、民の労役を免除したり、食糧を配ったりしました。
衛尉卿となる
507年、荊州で水害が起き、長江の堤防が決壊すると、蕭憺は自ら堤防を修築しました。
屋根や木の上に避難した民を救うべく、「報酬を出すから、助けてほしい」と言って、救助にあたる人材を募集しました。
蕭憺の行動力と早い決断のおかげで、被害は拡大せず、蕭憺は民から慕われました。
508年、育ての母・陳氏が亡くなり、蕭憺は6日間、食事はもちろん、水分すら摂りませんでした。
蕭憺を心配した武帝は、蕭憺の気を紛らわせようと、喪中であっても荊州刺史の職務に励むよう命令しました。
蕭憺は仕事をしっかりこなし、509年、中書令となり、衛尉卿を兼任しました。
その後、南兗州(江蘇省揚州市)刺史として、南兗州に出向きました。
北魏軍を撤退させる
510年、益州(重慶市)刺史に任命され、学校を開いて、次男・蕭暎を学校に通わせました。
蕭憺の人柄に憧れていた臣下は、蕭憺と同じように子どもを学校に通わせました。
また、北魏が梁に侵入し、南安郡(甘粛省定西市)を包囲すると、蕭憺は南安郡に兵を送り、北魏軍を撤退させました。
45歳で亡くなる
518年、蕭順之の7男で、同じ呉氏から生まれた蕭秀が亡くなりました。
蕭順之には11人の息子がいましたが、呉氏が産んだのは蕭秀と蕭憺の二人で、蕭憺にとって、蕭秀は唯一血の繋がった兄でした。
ショックを受けた蕭憺は財産のほとんどを費やして、弔慰金を用意し、感謝の気持ちを込めて、蕭秀の部下に贈りました。
519年、梁の都・建康に呼び戻され、侍中、開府儀同三司となり、522年11月、45歳で亡くなりました。
王峻ってどんな人?
王峻は466年生まれで、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)の出身。
蕭衍と廃帝の間で中立を保つ
王峻は著作左郎に任命されましたが辞退し、太子舎人や邵陵王文学、太傅主簿を歴任しました。
斉の第2代皇帝・武帝(蕭賾)の第2皇子・蕭子良に才能を評価され、司徒主簿に任命されましたが、父が亡くなったため、辞職して故郷に帰りました。
喪に服した後、太子洗馬として、皇太子の政務をサポートしました。
その後、正五位下である寧遠将軍、桂陽郡(湖南省郴州市)内史として、桂陽郡に出向きました。
廃帝に仕えていた官吏は、廃帝と蕭衍のどちらにつこうかと騒ぎましたが、王峻はどちらにつくこともなく傍観するだけでした。
そのため、王峻が統括していた桂陽郡の治安は、他の地域に比べて落ち着いていたため、多くの民が桂陽郡に移って、王峻を頼りました。
左民尚書や歩兵校尉として活躍する
502年、斉の第7代皇帝・和帝(蕭宝融)のもとで中書侍郎となると、蕭衍に才能を評価され、皇太子の教育係である太子中庶子や游撃将軍に任命されました。
その後、宣城郡(安徽省宣城市)太守として、宣城郡に出向きました。
その後、南郡(湖北省荊州市)太守として、南郡に出向き、また、蜀郡(四川省成都市)太守として蜀郡に出向きました。
吏部尚書となる
王峻は数多くの役職を歴任しましたが、特に人材選抜の才能があったため、晩年、吏部尚書に任命されました。
病を患った王峻は吏部尚書を辞職し、521年、56歳で亡くなりました。
蕭憺と王峻が口喧嘩した理由は?
蕭憺と王峻の生涯を読むと分かるように、二人とも、温厚で落ち着いた人物。
ところが、蕭憺と王峻は口喧嘩したことがあるんです。
実は、蕭憺と王峻は姻戚関係で、蕭憺の娘・繁昌公主と王峻の息子・王琮は学生結婚をしていました。
すると、王琮の通っていた国子学の同級生が、繁昌公主と結婚したことをはやし立てたんです。
恥ずかしくなった王琮は、繁昌公主と離婚してしまいました。
王峻は蕭憺のもとを訪れ、王琮が無礼を働いたことを謝罪しました。
すると、蕭憺は王峻に「陛下が用意した縁談だから、結婚を許しただけで、本当は娘を結婚させたくなかった」と負け惜しみを言ったんです。
謝罪に訪れたはずの王峻は「うちの先祖は謝仁祖の外孫で、もともと名門貴族だから、皇族と結婚しなくても良かった。陛下が用意した縁談だから、うちも結婚を許しただけで、本当は息子を結婚させたくなかった」と言い返しました。
蕭憺は王峻に何も言い返せませんでした。
皇族といえば、国の中で最も高い身分だと考える方が多いかもしれません。
でも、貴族の家柄によっては、貴族が皇族と同等の地位、あるいは、皇族を上回る地位だったことが分かりますね。
官職より、家柄や教養が重視される時代だったんですね。
まとめ
皇族・蕭憺と一介の官吏・王峻が口喧嘩した理由を、二人の生涯と共に紹介しました。
蕭憺と王峻は、どちらも周囲から支持されるような人物でしたが、子どもの結婚、離婚で口喧嘩となりました。
口喧嘩の結果、黙ってしまったのは皇族である蕭憺でした。
人物の地位の高低を、官職の地位の高低で計りがちですが、南朝・梁では、官職ではなく、家柄の高低や教養の有無が重視されました。
離婚した繁昌公主と王峻が、その後、家庭をもつことができたのか、気になりますね。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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