梁の都は建康(江蘇省南京市)ですが、梁の第4代皇帝・元帝(蕭繹)は建康ではなく、江陵(湖北省荊州市)で即位し、政権を運営しました。
何故、元帝は江陵で即位したのでしょうか。
元帝(蕭繹)の生涯、江陵で即位した理由を紹介します。
元帝(蕭繹)ってどんな人?
蕭繹は508年生まれで、梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)と側室・阮令嬴の間に、第7皇子として誕生しました。
蕭遙光が亡くなると、第6代皇帝・東昏侯(蕭宝巻)の側室となり、501年、東昏侯が武帝に殺されると、武帝の側室となりました。
寧遠将軍・会稽郡(浙江省紹興市)太守に任命された後、526年10月、西中郎将・荊州(湖北省荊州市)刺史に任命され、江陵(湖北省荊州市)に赴任しました。
司徒に任命される
549年3月、侯景の乱が勃発し、都・建康が陥落しました。
建康と江陵は750km程度離れていて、江陵に滞在していた蕭繹は難を逃れました。
武帝が侯景に幽閉されると、武帝のひ孫である太子舎人・蕭韶は密かに詔勅を蕭繹に届けました。
詔勅により、蕭繹は司徒に任命され、幽閉された武帝に代わって政務を取りしきることになりました。
皇室間の対立を拡げる
549年5月、武帝が崩御。
司徒に任命された蕭繹は自分が武帝の後継者として即位するものだと思っていましたが、即位したのは兄・蕭綱でした。
蕭綱は第2代皇帝・簡文帝として即位しましたが、蕭繹は簡文帝の即位を認めず、江陵で独自に政権を運営しました。
そのため、武帝の孫・蕭誉や兄・蕭紀など、皇室間で対立が拡がりました。
6月、蕭繹は長男・蕭方等に蕭誉を討伐するよう命じましたが、蕭方等は失敗して敗死。
続いて、信州(重慶市)刺史・鮑泉を討伐に派遣しましたが、鮑泉も討伐に失敗してしまいました。
550年5月、蕭繹は竟陵郡(湖北省仙桃市)太守・王僧弁を派遣し、ついに蕭誉を討ちました。
即位する
552年3月、王僧弁と陳覇先は侯景が建国した漢の都・建康を陥落し、侯景の乱が終結。
簡文帝が崩御していたため、11月、蕭繹は江陵で梁の第4代皇帝・元帝として即位しました。
西魏に敗北して崩御する
蕭紀が江陵に攻め入ったため、元帝は西魏に協力を要請し、蕭紀の拠点である蜀(四川省成都市)を攻めました。
元帝は蜀を返還するように求めましたが、西魏は報酬だとして元帝の要求に応じませんでした。
そこで、元帝は北斉に協力を要請して、西魏を征討することにしました。
554年、態度をコロコロ変える元帝にしびれを切らした西魏は、元帝と長年対立し続けてきた蕭詧を擁立して、江陵を攻撃。
元帝の最も頼りにしていた王僧弁が建康に滞在していたため、元帝は西魏軍を撃退できず、江陵は陥落しました。
元帝は西魏に捕らえられて殺され、47歳で崩御しました。
元帝が江陵で即位した理由は?
梁の都が建康であるにも関わらず、第4代皇帝・元帝は建康から750kmも離れた江陵で独自に政権を運営し、即位しました。
何故、元帝は江陵で即位したのでしょうか。
その答えは、元帝が皇族に殺されることを恐れたからです。
一般的には、皇帝が崩御したら、その皇子が後継者として即位します。
初代皇帝・武帝が崩御する前に、第1皇子、第2皇子が亡くなっていたため、第3皇子・蕭綱が武帝の後を継いで、第2代皇帝・簡文帝として即位しましたが、年齢から考えて、蕭綱が即位することはおかしい話ではありません。
むしろ、蕭綱を差し置いて、第7皇子・蕭繹が即位することがおかしいです。
でも、司徒に任命された蕭繹は自分が武帝の後継者としてふさわしいと考え、簡文帝の即位を認めませんでした。
蕭繹が簡文帝の即位を認めないという態度をとったことにより、皇族は蕭繹に不満を抱くようになりました。
また、皇族は「年齢順に即位するなら、兄を排除しなければいけない」、「兄を排除すれば、早く即位できる」と考えるようになり、皇族間で対立が拡大しました。
もし、蕭繹が長年滞在していた江陵から建康に戻り、建康で即位して政権を運営していたら、建康やその近くに滞在していた多くの皇族から攻撃されていたのではないでしょうか。
まとめ
元帝(蕭繹)の生涯、江陵で即位した理由を紹介しました。
皇族間の対立に悩まされた元帝は、西魏や北斉に協力を要請したものの、態度をコロコロ変えてしまったため、西魏の信頼を失い、西魏に捕らえられて殺されてしまいました。
元帝は簡文帝の即位を認め、簡文帝に従っていれば、皇族間の対立は抑えられたのかもしれませんね。
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