永明の治と呼ばれる安定した治世を築いた斉の第2代皇帝・武帝(蕭賾)。
武帝とはどのような人物なのでしょうか。
武帝(蕭賾)の生涯を紹介します。
劉子勛に軟禁される
武帝は440年生まれで、斉の初代皇帝・高帝(蕭道成)と劉皇后(劉智容)の間に第1皇子として誕生しました。
名前は蕭賾(さく)といいます。
そのため、蕭賾は「龍の子」と呼ばれました。
465年、宋の第4代皇帝・孝武帝(劉駿)の第3皇子・劉子勛が第5代皇帝・明帝(劉彧)を廃そうと挙兵しました。
この時、蕭賾は南康(江西省贛州市)相・沈粛之に捕らえられ、軟禁されてしまいました。
そして、桓康は40人の兵を率いて、蕭賾を救出しました。
皇太子に冊立される
反乱が鎮圧されると、蕭賾は都・建康に召喚され、尚書庫部郎、襄陽(湖北省襄陽市)太守に任命されました。
479年、皇太子に冊立されましたが、内輪争いが起き、側近以外の官吏を疑うようになりました。
即位する
482年、高帝が崩御し、第2代皇帝・武帝として即位しました。
その後、武帝は裴恵昭の他に正妻を迎えることはありませんでした。
永明の治を築く
武帝は宋の文帝が築いた元嘉の治を手本とし、
① 地方官の任期を安定させる
② 校籍官を設置して、戸籍を整理する
③ 貴族の利権を削減する
などの政策を実施しました。
また、租税の安定に努め、宰相・王侯に学士館を開設させたり、外交面では北魏と友好関係を保ったりしました。
武帝の安定した治世は永明の治と呼ばれました。
戸籍整理を中止する
永明の治と呼ばれる安定した治世を築いた武帝。
ところが、武帝の実施した戸籍整理には、校籍官によってムラがあるという欠点がありました。
校籍官に賄賂を贈ることで、法の穴をくぐることができたんです。
賄賂を贈ることができるほど、裕福な生活を送っていなかった民は不当に処罰され、民は処罰から逃れるために逃亡するようになりました。
485年、武帝の実施した戸籍整理に不満を抱いた唐寓之は反乱を起こしました。
唐寓之は処刑され、反乱はすぐに鎮圧されましたが、民の不満は募るばかり。
490年、武帝は妥協して、戸籍整理を中止しました。
54歳で崩御する
493年1月、第1皇子である皇太子・蕭長懋が亡くなり、4月に蕭長懋の第1皇子・蕭昭業を皇太孫に冊立しましたが、7月、武帝は病を患い、54歳で崩御しました。
まとめ
武帝(蕭賾)の生涯を紹介しました。
武帝は永明の治と呼ばれる安定した治世を築きましたが、政策のうちの一つである戸籍整理によって、民の不満が爆発。
武帝は妥協して、戸籍整理を中止せざるを得ませんでした。
国のトップである皇帝も、結集した民には勝てなかったんですね。
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