479年から502年まで存続した斉。
11年在位した第2代皇帝・武帝(蕭賾)以外皆、在位期間は1年から3年と短命政権でした。
斉最後の皇帝・和帝(蕭宝融)もその一人。
和帝とはどのような人物なのでしょうか。
和帝(蕭宝融)の生涯を紹介します。
相国となる
和帝は488年生まれで、斉の第5代皇帝・明帝(蕭鸞)と敬皇后(劉恵端)の間に第8皇子として誕生しました。
名前は蕭宝融といいます。
494年、隨郡(湖北省随州市)王に封じられ、496年には、冠軍将軍・領石頭戍(江蘇省南京市)事となりました。
499年、西中郎将・荊州(湖北省荊州市)刺史に任命され、都・建康を離れました。
500年11月、東昏侯の暴政に耐えられなくなった荊州長史の蕭穎冑は、雍州(陝西省宝鶏市)刺史・蕭衍を筆頭とするクーデターを計画。
当時12歳だった蕭宝融に頼み込んで、蕭穎冑自身を右将軍に、蕭衍を左将軍に任命させました。
12月、第3代皇帝・鬱林王(蕭昭業)の母・宣徳太后(王宝明)の命令により、蕭宝融は宣城王・相国・荊州牧となりました。
蕭宝融が相国となったといっても、皇帝である東昏侯が任命したわけではないので、自称・相国です。
501年2月、蕭衍は襄陽(湖北省襄陽市)で挙兵しました。
即位する
3月、蕭宝融は第7代皇帝・和帝として即位。
東昏侯が廃されたわけではないので、これも自称・皇帝です。
和帝は蕭穎冑を尚書令に、明帝の第1皇子・蕭宝義を司空に、明帝の第5皇子・蕭宝源を車騎将軍に、明帝の第6皇子・蕭宝寅を徐州(江蘇省徐州市)刺史に、夏侯詳を中領軍に、蕭衍の弟・蕭偉を雍州刺史に任命しました。
廃されていない東昏侯は、当然、都・建康で皇帝として過ごしていましたが、和帝は東昏侯を涪陵王に封じました。
12月、東昏侯は蕭衍によって殺され、クーデターは成功。
蕭衍は宣徳太后の命令によって、大司馬・揚州(江蘇省揚州市)刺史に任命されました。
禅譲して2日後に崩御する
東昏侯が崩御し、正式に皇帝となった和帝。
即位した当時、和帝はわずか13歳で、蕭衍が実権を握っていました。
502年1月、和帝は蕭衍を相国・総百揆・揚州牧に任命し、梁公に封じました。
相国となった蕭衍は、官吏の中でトップに立ったんですね。
3月には、蕭衍は梁王に封じられ、朝廷で実権を拡大した蕭衍は即位する準備を整えました。
4月、和帝は蕭衍に禅譲し、蕭衍は初代皇帝・武帝として即位して、梁を建国しました。
和帝は廃されて巴陵王に封じられ、姑孰(安徽省馬鞍山市)に移されました。
武帝は和帝のもとへ部下・鄭伯禽を派遣し、自害するように命じました。
和帝は「お酒があれば、自害できる」と言って一升のお酒を飲み、鄭伯禽によって絞め殺されました。
まとめ
和帝(蕭宝融)の生涯を紹介しました。
わずか13歳で即位し、即位して1年後には、梁の初代皇帝・武帝に禅譲した和帝。
和帝が自害前に飲んだお酒は一升(1.8リットル)。
死期が迫り、14歳で1.8リットルも飲んだ和帝の気持ちを考えると切なくなりますね。
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