【宋】献身的な異母弟・劉誕を殺した孝武帝(劉駿)

どんなに献身的に仕えても、生母の異なる皇子間では争いが絶えませんでした。

弟・劉誕を殺したの第4代皇帝・孝武帝劉駿)の生涯を紹介します。

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文帝の第3皇子として誕生する

孝武帝は430年生まれで、宋の第3代皇帝・文帝(劉義隆)と側室・路淑媛の間に、第3皇子として誕生しました。
名前は劉駿といいます。

徐州刺史になる

439年に都督湘州諸軍事、征虜将軍、湘州(湖南省長沙市)刺史となり、440年には使持節、都督南豫豫司雍并五州諸軍事、南豫州(安徽省宣城市)刺史となりました。

444年に撫軍将軍の号を授けられ、445年には寧蛮校尉、雍州(陝西省西安市)刺史となり、448年に安北将軍・徐州(江蘇省徐州市)刺史となって彭城(江蘇省徐州市)に赴任しました。

北魏に敗北し、責任を問われる

450年、北魏の第3代皇帝・太武帝が侵攻したため、劉駿は兵を率いて汝陽(河南省洛陽市)に向かい、北魏軍と戦いしましたが敗北。

責任を問われた劉駿は鎮軍将軍に降格されました。

451年2月に、北魏軍が再び宋を侵攻し、侵攻を食い止められなかった劉駿は北中郎将に降格されました。
その後、南兗州(江蘇省揚州市)刺史や南中郎将、江州(江西省九江市)刺史を歴任しました。

即位する

453年1月、文帝の第1皇子である異母兄・劉劭が文帝を殺して即位したため、劉駿は劉劭を殺し、第4代皇帝・孝武帝として即位しました。

孝武帝は荊州(湖北省荊州市)、揚州(江蘇省揚州市)、江州(江西省九江市)の3州の軍府の権力を削って、使者を派遣して、租税の督促を行いました。
また、士族と工商、雑戸(技術者)など、職業をまたいだ結婚を禁止し、武力政治を行いました。

異母弟・劉誕が活躍する

454年、初代皇帝・武帝(劉裕)の第6皇子である叔父・劉義宣が反乱を起こしたため、文帝の第6皇子である異母弟・劉誕に鎮圧させました。

劉誕は孝武帝の命令に従って反乱を鎮圧したものの、鎮圧に成功したことで、孝武帝は「兵力を上げたり、武器の性能を高めたりして、劉誕は帝位を簒奪しようとしているのではないか」と疑うようになりました。

劉誕のもとに、劉誕に憧れを抱く兵が集まったことも、孝武帝の疑いを深める原因となりました。

劉誕を殺す

孝武帝は劉誕を南徐州(江蘇省揚州市)刺史に任命しましたが、南徐州は都・建康から近く、劉誕が反乱を起こすのではないかと警戒しました。

劉誕は孝武帝の命令に従って、異民族や北魏の侵攻に備えて、兵や武器を揃えましたが、孝武帝から更に疑われるようになりました。
孝武帝は劉誕の暗殺を企てたところ、孝武帝の計画が劉誕に漏れ、459年4月、劉誕は反乱を起こしました。

孝武帝は車騎大将軍・沈慶之に鎮圧を任せ、捕らわれた劉誕は殺され、妻・徐氏と母・殷氏は自害しました。

464年5月、孝武帝は34歳で崩御しました。

まとめ

弟・劉誕を殺したの第4代皇帝・孝武帝劉駿)の生涯を紹介しました。

北魏に敗北して責任を問われた経験のある孝武帝は、活躍した異母弟・劉誕を警戒し、劉誕を殺しましたが、孝武帝は劉誕を警戒したのではなく、劉誕の才能に嫉妬したのかもしれませんね。

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