【唐】安史の乱とは?経過と原因、唐と日本への影響をわかりやすく解説

世界史の教科書に登場する安史の乱。
実は、安史の乱が日本にも影響を与えていたことをご存知でしょうか。

安史の乱経過原因日本への影響わかりやすく解説します。

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安史の乱とは?

755年に、節度使・安禄山とその盟友・史思明が起こした反乱を安史の乱と呼びます。

当初は反乱をすぐに鎮圧できると考えられていましたが、実際には、763年までの9年間続きました。

安史の乱は安禄山の安、史思明の史を取って名づけられました。

ただ、反乱が鎮圧されるまでの9年の間に、安禄山と史思明は亡くなります。
二人が亡くなった後、安禄山の息子・安慶緒や史思明の息子・史朝義が反乱を引き継ぎました。

安史の乱の経過

9年にわたる安史の乱をみてきましょう。

安禄山が挙兵する

755年11月、安禄山は幽州(北京市)で挙兵しました。

史思明と安禄山の次男・安慶緒の他、
☑ 漢人官吏・厳荘、高尚
☑ 突厥王族出身・阿史那承慶
☑ 契丹出身・孫孝哲
などが反乱に参画し、安禄山軍の兵はなんと15万人を超えました。

范陽節度使、平盧節度使、河東節度使の3つを兼任していた安禄山。
安禄山のもとに兵が集中していたため、唐には動かせる兵がいませんでした。

唐は兵を慌てて募集しましたが、寄せ集めの兵の戦闘能力は高くありません。

また、唐では反乱が長年起きていませんでした。
そのため、手入れをしていなかった武器は錆びついて使い物になりませんでした。

反乱から一ヶ月後には、唐の副都・洛陽が陥落しました。

安禄山が燕を建国する

756年1月、洛陽を都に定めて、安禄山は燕を建国しました。
安禄山は大燕聖武皇帝と称して即位しました。

唐軍は洛陽から潼関(陝西省渭南市)に退却しました。

潼関で封常清と高仙芝は安禄山軍と戦いましたが敗北。
攻撃態勢を整えるために退却したところ、二人は退却した罪で処刑されてしまいました。

安禄山が潼関を奪う

雍丘(河南省開封市)で安禄山軍と唐軍が戦います。
張巡が大活躍して、今まで負け続けていた唐軍は勝利しました。

唐軍に大きなチャンスが舞い込んできました。
ところが、時の権力者である宰相・楊国忠がそのチャンスを棒に振ってしまいます。

封常清と高仙芝の後を継いだ哥舒翰は潼関に出向きました。

安禄山軍の統率が取れていないと感じた哥舒翰は、
・わざわざ攻撃しなくても、安禄山軍はそのうち自滅する
・潼関を守り抜いて、時間を稼ぐことが大事だ

と考えました。

すると、楊国忠は「哥舒翰が安禄山軍を攻撃しないのは、唐を裏切ろうとしているからだ」と言いました。

唐の第9代皇帝・玄宗(李隆基)は楊国忠の発言を信じ、哥舒翰に進撃を命じました。

安禄山軍を攻撃せざるを得なくなった哥舒翰。
潼関を出たところを安禄山軍に捕らえられて、哥舒翰は殺されてしまいました。

玄宗が蜀へ逃げる

期待していた封常清、高仙芝、哥舒翰が次々と敗れてしまいました。
身の危険を感じた楊国忠は、自分の出身地・蜀(四川省成都市)に逃げることを提案しました。

756年6月13日、玄宗と宗室、楊氏一族は蜀を目指して、長安を出発しました。

ところが、14日、馬嵬(陝西省咸陽市)に到着した時、左龍武大将軍・陳玄礼が楊国忠を斬りました。

何故、陳玄礼は楊国忠を斬ったのでしょうか。

安禄山が挙兵した目的は、楊国忠を朝廷から排除すること。
楊国忠が安史の乱の原因だったから、陳玄礼は楊国忠を斬ったんですね。

続いて、楊貴妃の姉・韓国夫人や虢国夫人が斬られ、楊貴妃は自害を命じられました(馬嵬駅の悲劇)。

粛宗が即位する

玄宗は皇太子・李亨(後の唐の第10代皇帝・粛宗)に反乱の鎮圧を命じました。

そして、玄宗自身は蜀を目指して再び移動しました。

楊国忠は亡くなりましたが、長安を出発する前に、楊国忠は蜀でのお世話係を手配していました。

756年7月12日、玄宗と離れた李亨は霊武(寧夏回族自治区銀川市)で即位しました。

粛宗は玄宗から譲位されて即位したわけではありません。
蜀に逃げた玄宗が国のトップでは、安禄山軍と戦う唐軍のモチベーションが上がりませんよね。
そこで、軍を指揮する粛宗が即位すれば、唐軍のモチベーションが高まるだろうと考えたんです。

粛宗は玄宗に文を送り、霊武で即位したことを事後報告しました。
粛宗が即位して約2週間後、玄宗は蜀に到着しました。

ウイグル軍が参戦する

756年9月、粛宗はウイグルに援助を求め、第2代ハーン・葛勒可汗は唐を援助することを約束しました。

また、アッバース朝のカリフ・マンスールは4000人のアラビア兵を唐に派遣しました。

唐軍が阿史那承慶を破る

756年11月、阿史那承慶が粛宗の滞在する霊武を襲撃しました。
粛宗はピンチに陥りましたが、ウイグル軍と郭子儀が駆けつけ、唐軍が勝利しました。

安禄山が亡くなり、安慶緒が即位する

燕を建国し、皇帝になった安禄山は戦いに出向くことはなく、洛陽で毎日宴会を開いていました。
やがて、安禄山は糖尿病が悪化し、失明して視力を失います。
視力を失った安禄山は自暴自棄になり、周囲に当たり散らすようになりました。

757年1月、安禄山は暴行を受けていた安慶緒と側近・李猪児に暗殺されました。

安禄山が亡くなると、安慶緒は燕の第2代皇帝になります。
ところが、史思明は安禄山を殺した安慶緒を軽蔑し、范陽(河北省保定市)に戻って自立してしまいました。

唐軍が洛陽を奪還する

757年9月、
① 皇太子・李俶(後の唐の第11代皇帝・代宗)
② 僕固懐恩
③ 郭子儀
が唐軍とウイグル軍の15万人の兵を率いて、安慶緒軍と戦い、洛陽を奪還します。

安慶緒が亡くなり、史思明が即位する

唐軍が優勢であることを知った史思明は唐軍に降伏しましたが、すぐに反旗を翻します。

史思明は安慶緒を殺して、燕の第3代皇帝になりました。

史思明が亡くなり、史朝義が即位する

760年9月、史思明は洛陽を再び奪還しましたが、長男・史朝義に殺されてしまいます。

史朝義は燕の第4代皇帝になりました。

代宗が即位する

762年4月、玄宗と粛宗が相次いで崩御したため、李俶が即位しました。

安史の乱が終結する

762年10月、唐軍とウイグル軍が再び洛陽を奪還しました。

史朝義は洛陽から莫亭県(河北省滄州市)へと逃げます。

でも、戦いの勝敗はもう明らかです。
このまま逃げ切ることはできないと諦めた史朝義は自害しました。

安史の乱の原因

安史の乱の直接的な原因は、楊国忠が安禄山を挑発したことにあります。

ソグド人で、一介の貿易仲介人だった安禄山。
玄宗と宰相・李林甫から気に入られて、平盧節度使に任命されました。

その後、范陽節度使と河東節度使を兼任することになりました。

嫉妬心の強かった李林甫は、
・異民族の安禄山が宰相に任命されることはない
・安禄山が昇進しても、自分と対立することはない
と考え、玄宗に安禄山を節度使に任命するように進言し続けました。

ところが、李林甫が病死し、朝廷で権力を握った楊国忠が安禄山に嫉妬。
楊国忠は安禄山がクーデターを企てていると度々進言しました。

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15万人もの兵を束ねていた安禄山。
確かに天下を夢見たことはあるかもしれませんが、行動に移すかどうかは別。

楊国忠は安禄山派の武部侍郎・吉温を左遷したうえで殺し、安禄山を挑発しました。
楊国忠の攻撃を恐れた安禄山は、楊国忠の排除を目的に挙兵することにしたんです。

唐と日本への影響

安史の乱は唐と日本にどのような影響を与えたのでしょうか。

唐への影響

安史の乱が唐に与えた影響は大きく3つあります。

軍事国家から財政国家へ

386年に建国された北魏の時代から、中国では租調庸制という税制が用いられていました。

租調庸制の課税対象は21歳から59歳までの男性で、
・租(穀物を納める)
・調(布を納める)
・庸(労働)
・雑徭(地方官庁への労役)
が課されていました。

農作物を育てながら、働かなければいけない租調庸制は民に過酷な生活を強いていました。
そこで、780年、第12代皇帝・徳宗のもとで、宰相・楊炎の提案により両税法が導入されました。

両税法の課税対象は、個人ではなく家一軒一軒。
課税内容は戸税(お金)と地税(穀物)で、土地や資産の多さによって、等級が設けられました。

これにより、民の負担を軽減したうえで、財源を確保することができました。
唐は軍事国家から財政国家へと移り変わりました。

外戚政治から宦官政治へ

粛宗が病で倒れると、宦官である側近・李輔国と張皇后が実権を握りました。

粛宗が即位する以前にも、
☑ 則天武后のもとで武氏宗室が実権を握る
☑ 第6代皇帝・中宗のもとで韋皇后が実権を握る
☑ 玄宗のもとで楊国忠が実権を握る
など、宗室や外戚が実権を握ることはありました。

おゆう
ゆこ

ところが、李輔国は張皇后を殺して、代宗に即位を勧めます。

玄宗が側近・高力士に正三品という上から数えて5番目の高い官職を与えていたことも重なって、以降、唐では宦官が朝廷で実権を握るようになりました。

ウイグルの強大化

唐軍が安史の乱を鎮圧できたのは、ウイグルの協力があったからだといっても過言ではありません。

おゆう
ゆこ

実は、ウイグルは唐を裏切って、史朝義の援助要請に応えようとしたことがあります。

これは、ウイグルが唐を滅ぼし、中国を支配する考えをもっていたことを表します。

実際には、ウイグルは唐を滅ぼしませんでした。
ただ、ウイグルが強大化したため、唐は西域から撤退せざるを得ませんでした。

日本への影響

海を隔てた中国国内で起きた安史の乱。
実は、安史の乱は日本にも影響を与えました。

当時の日本を治めていたのは、第47代天皇・淳仁天皇。

淳仁天皇に仕えていた藤原仲麻呂は、

公家
藤原仲麻呂

安史の乱の混乱に乗じて、唐軍が日本に侵攻するかもしれない…

と考え、中国に近い西国に節度使を配備しました。

\安史の乱がよくわかるオススメの中国ドラマはこちら/

まとめ:日本は安史の乱で戦う唐軍を警戒していた

安史の乱経過原因日本への影響わかりやすく解説しました。

宰相・楊国忠の攻撃を恐れた安禄山が、盟友・史思明と共に挙兵して起こした安史の乱。

安史の乱は唐を、
・軍事国家から財政国家
・外戚政治から宦官政治
と変化させ、また、ウイグルを強大化させ、西域から撤退させました。

安史の乱の鎮圧後、唐は907年に滅亡するまで145年間存続しますが、衰退の一途をたどるばかり。
それほど、安史の乱が唐に与えた影響は大きかったんですね。

唐が衰退するきっかけをつくった安禄山。
中国時代劇を見て、安禄山に興味をもった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
安禄山について知りたい方は、塚本青史著「安禄山」がおすすめ。

ソグド人と突厥の混血である安禄山が商人、軍人に成長していく。
そして、玄宗と楊貴妃に気に入られるも、楊国忠や皇太子に疎まれる。
史実に基づいて、悲劇のヒーロー・安禄山の生涯を描いた歴史小説です。
ぜひ一度、「安禄山」を読んでみてください。

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