唐の第21代皇帝・僖宗(きそう)は、他の皇帝に比べてお墓が小さいと有名です。
何故、僖宗のお墓は小さいのでしょうか。
その答えは、僖宗の人柄に関係しています。
僖宗の生涯を紹介します。
皇太子になる
僖宗は862年生まれで、父・唐の第20代皇帝である懿宗と母・王貴妃の間に、第5皇子として誕生しました。
李儼(りげん)と名付けられましたが、後に、李儇(りけん)と改名しました。
李儼の母・王貴妃は866年に亡くなりました。
第5皇子である李儼には、第1皇子・李佾、第2皇子・李侹、第3皇子・李佶、第4皇子・李侃の4人の兄がいました。
でも、4人の生母は身分が低く、身分が低い母から生まれた皇子は皇太子にふさわしくないとして、4人の兄を差し置いて、李儼が皇太子に選ばれました。
即位する
873年、懿宗が崩御すると、宦官・田令孜に擁立されて、12歳だった李儼は唐の第21代皇帝・僖宗として即位しました。
12歳といえば小学6年生ぐらい。
政治を知らず、まだまだ遊び盛りの僖宗は、田令孜に朝廷を一任して、闘鶏や囲碁、アーチェリーや馬球に明け暮れました。
田令孜は親交のあった劉行深を左軍中尉に、韓文約を右軍中尉に任命しました。
黄巣の乱が勃発する
874年に黄巣の乱が勃発すると、僖宗は田令孜と共に蜀(四川省成都市)へ逃亡しました。
そして、逃亡先から、河東太原・李克用や河中節度使・王重栄に反乱を鎮圧するよう命じました。
安全なところから、部下に危険な任務を与えるなんて、まさに上司の反面教師。
僖宗より身分が低く、また、立場も弱い女官が、僖宗を非難しましたが、気弱な僖宗は何も言い返せませんでした。
885年、反乱が鎮圧され、僖宗は長安に戻りました。
10年もの間、朝廷を仕切っていた田令孜が都を離れていたことで、朝廷は大混乱。
朝廷の力は地方に届かず、軍閥が地方を牛耳っていました。
27歳で崩御する
都では、蜀へ逃亡していた田令孜より、反乱を鎮圧した王重栄が大人気。
当然の結果です。
嫉妬した田令孜は王重栄と対立するようになりました。
王重栄は李克用に支援を要請し、李克用は長安に進軍しました。
僖宗と田令孜は鳳翔(陝西省宝鶏市)に逃亡し、宮廷は焼き討ちに遭いました。
逃亡先から、僖宗は李克用と王重栄に反乱を鎮圧するように命じ、反乱は鎮圧されました。
888年、僖宗が長安に戻ると、宦官・楊復恭が朝廷を牛耳っていて、僖宗の居場所はありませんでした。
その年、僖宗は27歳で崩御しました。
まとめ
僖宗の生涯を紹介しました。
12歳で皇帝に即位した僖宗は、非難した女官にも言い返せないほど気弱な性格でした。
反乱を鎮圧して長安に戻った僖宗に居場所がなかったことなどから考えると、僖宗は寂しい人生を送ったのかもしれません。
僖宗のお墓が特に小さい理由には、僖宗の性格、皇帝の権力の弱体化の2点が関係していると考えられるのではないでしょうか。
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