わずか2歳で父・北条高時、兄・北条邦時を失った北条時行。
24歳で亡くなるまでの22年間、北条時行は足利尊氏から逃げ続けることになります。
北条時行の波乱の生涯と最期、妻と子孫を紹介します。
北条時行の波乱の生涯
北条時行は鎌倉幕府第14代執権・北条高時の次男として誕生しました。
「太平記」第10巻では、母は北条高時の側室・新殿だとされています。
生まれ年は判っていませんが、
① 兄・北条邦時が正中2年(1325年)生まれであること
② 元徳元年(1329年)12月22日付の「金沢貞顕書状」に、北条高時の子が生まれると記載されていること
から、北条時行は元徳元年(1329年)12月生まれだと考えられています。
諏訪頼重に保護される
元徳3年(1331年)、
・倒幕を掲げる後醍醐天皇
・鎌倉幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家
の間で、元弘の乱が勃発。
足利尊氏が後醍醐天皇に寝返ったことで、幕府の西国監視機関・六波羅探題が壊滅します。
その後、新田義貞による鎌倉攻めが行われ、北条高時含む多くの北条一門が自害し、幕府は滅亡しました。
当時2歳だった北条時行は諏訪頼重の協力を得て、鎌倉から落ち延びます。
諏訪頼重の本拠地・信濃国に移り、諏訪大社を奉じる諏訪神党に匿われて暮らしました。
ところが、五大院宗繁の裏切りによって新田勢に捕まり、処刑されてしまいました。
挙兵し、中先代の乱が勃発する
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は元弘3年(1333年)7月に建武の新政を開始。
ただ、建武の新政を開始した後も、北条与党によって各地で反乱が起こりました。
建武2年(1335年)7月。
諏訪頼重・時継親子は北条時行を擁立し、諏訪神党や北条氏残党を率いて、信濃国で挙兵(中先代の乱)。
信濃国守護・小笠原貞宗を撃破した北条時行は、足利尊氏の弟・足利直義をも撃破し、鎌倉を奪還しました。
諏訪頼重を失う
ところが、足利尊氏が参戦すると、戦の流れが大きく変わります。
北条時行は足利尊氏・直義兄弟に敗北し、鎌倉へ後退しました。
足利勢が鎌倉に迫り、北条時行は追い詰められます。
諏訪頼重・時継親子は自害し、時間を稼いで北条時行を逃がしました。
南朝に帰順し、鎌倉を奪還する
鎌倉を再び脱出した北条時行は翌年、後醍醐天皇に許しを請い、南朝に帰順しました。
延元2年(1337年)、足利勢から京を奪還するために、北畠顕家が奥州から京に向かいます。
北条時行は足柄・箱根に兵を進め、北畠顕家や新田義貞の次男・新田義興と合流しました。
まず、杉本城の戦いで足利勢・斯波家長を破り、鎌倉を制圧しました。
北条時行にとって、2度目の鎌倉奪還でした。
伊勢に向かう
延元3年(1338年)1月、北条時行は北畠顕家と共に鎌倉を出発。
洲俣河(長良川)の戦いで、足利勢である高師直の弟・高重茂を破ります。
更に、青野原の戦いで高師冬や土岐頼遠と戦い、勝利しました。
勝利を重ねた北条時行と北畠顕家。
ただ、連戦で兵力を消耗してしまいました。
そこで、態勢を整えるために、北畠顕家の父・北畠親房のいる伊勢に向かいます。
北条時行の最期
延元3年(1338年)5月、石津の戦いで北畠顕家は討死します。
なんとか生き残った北条時行は新田義興と従兄弟・脇屋義治と合流。
鎌倉に攻め込み、足利尊氏の四男・足利基氏を破り、3回目となる鎌倉奪還を果たしました。
その後も、北条時行は新田義興と共に行動します。
ただ、いつ頃まで、どのように共に行動したのかは判っていません。
正平8年(1353年)5月20日、逃げ続けてきた北条時行は足利勢に捕らえられてしまいます。
22日、鎌倉龍ノ口(神奈川県藤沢市)で処刑され、24歳でこの世を去りました。
北条時行の妻
足利尊氏から逃げ続け、各地を転々とした北条時行。
北条時行の妻がどのような人物だったのか、気になりますよね。
・北条時行の妻がどのような人物だったのか
・そもそも、北条時行に妻がいたのかどうか
判っていません。
ただ、これから紹介するように、女性との間に子どもを授かっています。
北条時行の子孫
北条時行の子孫については諸説あります。
長男・行氏
「佐野本系図」では、延元3年(1338年)5月。
石津の戦いで北畠顕家を失った北条時行は伊勢に移ったと記載されています。
この時、伊勢に滞在していた後醍醐天皇の第7皇子・義良親王と共に奥州を目指して、出航しようとしました。
ところが、嵐で出航に失敗したため、北条時行は伊勢にしばらく住むことになります。
北条時行は「伊勢次郎」と改名し、長男・行氏を授かりました。
伊勢宗瑞(北条早雲)は行氏の子孫だとも考えられています。
次男・時満
北条時行は熱田大宮司家の娘との間に次男・時満を授かりました。
時満の子・北条時任は愛知郡横江村に移り住みます。
そして、子孫は赤目城(愛知県愛西市)を築城して横江氏(横井氏)を称したといわれています。
その他、中先代の乱で敗走した北条時行は、
・武蔵国の豊島氏当主・豊島景村に匿われ、豊島輝時
・信濃国の巫女との間に複数の子ども
を授かったといわれています。
まとめ:北条時行は逃げながらも鎌倉を3回奪還していた!
北条時行の波乱の生涯と最期、妻と子孫を紹介しました。
鎌倉幕府執権・北条高時のもとに誕生した北条時行。
ところが、元弘の乱をきっかけに、その安泰な生活は崩れ落ちました。
諏訪頼重に守られ、北畠顕家や新田一族と共に戦い抜いた北条時行。
北条時行の大半の人生は周りに恵まれていたのかもしれませんね。
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