徳川家康は何をした人?生い立ちをわかりやすく簡単に解説

教科書に必ず登場する徳川家康。
でも、テレビ番組でよく特集される好きな武将ランキングでは、織田信長や上杉謙信より下位となることもしばしば。

他の戦国武将に比べて、地味な印象ですが、徳川家康は何をした人なのでしょうか。

徳川家康の功績や生い立ちわかりやすく、そして、簡単に解説します。

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徳川家康は何をした人?

1600年に起きた関ヶ原の戦いで、徳川家康は毛利輝元や石田三成率いる西軍に勝利。
1603年から1867年まで、約260年間も続く江戸幕府を開きました。

すけさん
すけさん

日本には、源頼朝の開いた鎌倉幕府、足利尊氏の開いた室町幕府、徳川家康の開いた江戸幕府の3つの幕府が存在しました。

1185年から1333年まで続いた鎌倉幕府では、後鳥羽上皇が北条義時を倒そうと挙兵した(承久の乱)り、中国の元王朝が侵攻した(元寇)りしました。

室町幕府は1336年から1573年まで続きましたが、1441年に赤松満祐が6代将軍・足利義教を殺した(嘉吉の乱)ことをきっかけに実権を失い、戦国時代に突入しました。

江戸幕府では、反乱や一揆はありましたが、鎌倉幕府や室町幕府で行われたような戦争はありませんでした。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

このように考えると、江戸幕府が続いた約260年間は比較的平和な時代だったといえるのかもしれません。

生い立ちをわかりやすく簡単に解説

教科書では、徳川家康と表記されていますが、徳川家康の元の名前は松平元信といいます。

おゆう
おゆう

松平元信という名前は聞き慣れないと思うので、こちらでは徳川家康と呼びます。

1542年に生まれる

天文11年(1542年)、徳川家康は岡崎城主だった松平清康の息子・松平広忠と刈谷城主だった水野忠政の娘・於大の方(伝通院)の間に誕生しました。

幼名は竹千代といいます。

松平家は駿河・遠江の今川義元に仕えていましたが、於大の方の兄であり、徳川家康の伯父にあたる水野信元が今川義元を裏切って、尾張の織田家に寝返りました。

おゆう
おゆう

今川義元に生涯仕えるつもりだった松平広忠。
松平家に嫁いだとはいえ、水野家出身の於大の方を咎めないわけにはいきません。

そこで、松平広忠は松平家を守るために離縁することを決意。
徳川家康は2歳で於大の方と生き別れになりました。

今川家の人質となる

天文16年(1547年)、徳川家康が今川家に向かう途中、護送役を務めていた戸田康光が徳川家康を織田信秀に売り飛ばしてしまいました。

織田信秀は織田信長の父です。

天文18年(1549年)、徳川家康を取り戻したかった今川義元は、今川家で人質として捕らえた織田信秀の息子・織田信広を引き渡すので、徳川家康を引き渡してほしいと人質の交換を要求しました。

息子を取り戻したかった織田信秀は今川義元の要求に応じ、人質が交換され、徳川家康は今川家の人質となりました。

築山殿と結婚する

天文24年(1555年)、今川義元の姪で、今川家臣の関口親永の娘である瀬名姫(築山殿)と結婚しました。

瀬名との間に授かった長男・松平信康は織田信長の長女・徳姫と結婚しました。
また、長女・亀姫は新城城(愛知県新城市)の城主・奥平信昌と結婚しました。

初陣を迎える

永禄元年(1558年)、今川義元に命じられて、織田家に寝返った寺部城(愛知県豊田市)の城主・鈴木重辰(日向守)を討ちました。

人質生活を終えて岡崎城に帰還する

永禄3年(1560年)、今川義元・織田信長間で桶狭間の戦いが勃発。
今川家の人質だった徳川家康は、当然今川勢として参戦しましたが、織田信長が今川義元を討ってしまいました。

今川義元が敗死したことを知ると、今川家臣の岡崎城代・山田景隆は城を捨てて逃亡。

坊っちゃん
坊っちゃん

岡崎城は徳川家康が生まれ育った場所です。

徳川家康はもぬけの殻となった岡崎城に11年ぶりに帰還し、人質生活を終えました。

織田信長と清州同盟を結ぶ

人質生活を終えた徳川家康は今川家から独立し、今川家に従う必要も、織田信長と戦う必要もなくなりましたが、自らの判断で織田信長と戦い続けました。

おゆう
おゆう

ところが、織田信長の力は弱まりません。

今川義元は亡くなりましたが、今川義元の息子・今川氏真、今川氏と同族の吉良氏らと戦わなければならず、徳川家康は織田信長との戦いだけに兵力を割いている場合ではありませんでした。

徳川家康は織田信長と手を組んで、対抗勢力に立ち向かいたいと考えるようになりましたが、織田信長に剣を向け続けた徳川家康は織田信長に和平交渉をもちかけられずにいました。

そこで、永禄5年(1562年)、於大の方と生き別れになる原因をつくった伯父・水野信元が仲介役を務め、徳川家康は織田信長と和解し、同盟を結びました。

徳川家康と織田信長が結んだ同盟を清洲(清須)同盟といいます。

織田信長と同盟を結んだ徳川家康は吉田城や田原城を次々と奪還。
東三河の城主が徳川家康に帰順し、永禄9年(1566年)には三河を統一しました。

その後、姉川の戦いや長篠の戦い、関ヶ原の戦いなど、数々の戦いを経て、徳川家康は天下を勝ち取っていきます。

まとめ

徳川家康の功績や生い立ちわかりやすく、そして、簡単に解説しました。

他の戦国武将に比べて、徳川家康は地味な印象をもたれているかもしれませんが、戦国時代を生き抜き、約260年間も続く江戸幕府を開いて、泰平の世を築きました。

1983年に放送された大河ドラマ「徳川家康」で、徳川家康の生涯は既に取り上げられていますが、2023年1月8日(日)から大河ドラマ「どうする家康」の放送が始まりました。
徳川家康の功績を改めて称え、魅力を再発見する機会となるのではないでしょうか。

大河ドラマ「どうする家康」をもっと楽しむなら、こちらのガイドブックがオススメです。


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