天下統一まであと一歩のところで、家臣・明智光秀に討たれた織田信長。
天下統一した豊臣秀吉の死後に、江戸幕府を開いた徳川家康。
三英傑に名前を連ねる徳川家康と織田信長の関係をご存知でしょうか。
徳川家康と織田信長の2人の関係と清洲同盟を結んだ理由を紹介します。
徳川家康と織田信長の関係は?
徳川家康と織田信長の関係は、幼馴染みであり、親戚です。
幼馴染み
幼馴染みの定義、基準は人それぞれ違いますが、2歳から6歳までの幼児期に親しくしていた友人を幼なじみと捉えるのが一般的です。
徳川家康が今川家で人質生活を送っていたことは有名ですが、今川家の人質となる前、徳川家康は織田家の人質となっていました。
徳川家康が織田家で人質生活を送った期間は天文16年(1547年)から天文18年(1549年)までの2年間。

天文11年(1542年)生まれの徳川家康は、6歳から8歳まで織田家で過ごしたこととなります。
この時の織田家の当主は織田信秀で、織田信秀の息子・織田信長が一緒に住んでいました。
織田信長は天文3年(1534年)生まれで、徳川家康より9歳も年上。
幼くして両親と離れて暮らす徳川家康を気遣い、織田信長はお菓子を差し入れました。
織田家を離れた後、徳川家康は今川家の人質として、今川義元の指揮のもと、織田家と戦うことになりますが、少なくとも徳川家康が織田家で過ごした2年間は幼馴染みのように仲が良かったのではないでしょうか。
親戚
永禄5年(1562年)、徳川家康と織田信長は清洲同盟を結びました。
そして、その翌年、永禄6年(1563年)3月、織田信長は長女・徳姫(岡崎殿)を徳川家康の長男・徳川信康に嫁がせると約束。
永禄10年(1567年)、織田信長の約束どおり、徳姫と徳川信康は結婚しました。



つまり、徳川家康と織田信長は相舅(あいやけ)となったんです。
ところが、徳川信康と徳姫の夫婦仲は悪く、天正7年(1579年)、「徳川信康が乱暴な振る舞いをした」などと言って、徳姫は徳川信康の悪行を織田信長に告げ口しました。
織田信長は徳川家康の家臣・酒井忠次に徳川信康を殺すよう命じ、徳川信康は移された二俣城で自害しました。
この時、徳川信康と徳姫は離縁したため、徳川家康と織田信長は相舅ではなくなり、親戚でもなくなりました。
なぜ清洲同盟を結んだ?
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討ちました。
今川家の人質だった徳川家康は今川軍として参戦していましたが、今川義元の死をきっかけに、今川家から独立します。
独立した徳川家康が今川氏と同族の吉良氏を攻撃すると、今川氏真は今川家にとどまっていた松平氏(徳川氏)を殺しました。
こうして、今川家と敵対することとなった徳川家康は、織田家と手を組むことができたらと考えるようになりました。
一方、織田信長は美濃の斎藤氏を攻める予定で、その隙をついて、東から徳川家康に攻撃されたらどうしようと恐れていました。
同盟を結んだ当初、徳川家康と織田信長の立場は対等でしたが、共通の敵だった武田信玄が亡くなると、共通の利害がなくなってしまいます。
共通の利害がなくなったからといって、同盟を解消する必要はないことから、同盟は継続されますが、もはや形式だけでした。
やがて、織田信長が領地を拡げて、勢力を拡大すると、徳川家康が織田信長に従うという従属関係に変わりました。
従属関係に変わってはしまいましたが、清洲同盟は織田信長が明智光秀に討たれる天正10年(1582年)6月まで続きます。
裏切りの多い戦国時代に、20年も同盟が続くのはとても珍しいことでした。
まとめ
徳川家康と織田信長の2人の関係と清洲同盟を結んだ理由を紹介しました。
幼少期を一緒に過ごした徳川家康と織田信長は、利害が一致した結果、清洲同盟を結び、長男と長女を結婚させて親戚となりました。
対等な関係から従属関係に変化し、織田信長に従うこととなった徳川家康にとって、清洲同盟は不本意な同盟となったかもしれません。
でも、織田信長の家臣・豊臣秀吉に続いて天下統一を成し遂げるためには、必要な我慢だったのではないでしょうか。
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