天下分け目の関ヶ原の戦い。
東軍が関ヶ原の戦いで勝利したのは、小山評定で結束したからだといわれています。
関ヶ原の戦いの軍議・小山評定が開かれた理由、参加者と内容、実際にはなかったといわれる理由を紹介します。
小山評定が開かれた理由
関ヶ原の戦いが勃発する約50日前。
下野国小山(栃木県小山市)で、軍議・小山評定(おやまひょうじょう)が開かれました。
小山で軍議を開くことになった経緯をみていきましょう。
① 越後国高田藩主・堀秀治
② 上杉家臣・藤田信吉
の訴えにより、徳川家康は上杉景勝に謀反の疑いを抱きます。
上杉景勝に対して、徳川家康は上洛して説明するように度々要求しました。
でも、上杉家臣・直江兼続は直江状をもって上洛を拒否。
直江状を受け取った徳川家康は上杉景勝を討つ目的で会津に向かいました。
ところが、下野国小山に到着した時、徳川家康は石田三成が京都で挙兵したことを知ります。
翌日、徳川家康は豊臣軍の武将を小山に急きょ集め、今後の進退を話し合いました。
小山評定の参加者
紹介したように、徳川家康は豊臣軍の武将を小山に集めました。
徳川家からは、
① 徳川家康
② 徳川家康の三男・徳川秀忠
③ 参謀・本多正信
④ 徳川四天王・本多忠勝
⑤ 徳川四天王・井伊直政
が参加。
豊臣軍からは、
① 黒田官兵衛の嫡男・黒田長政
② 石田三成と対立していた福島正則
③ 石田三成と対立していた加藤嘉明
④ 功名が辻で知られる山内一豊
⑤ 五奉行・浅野長政の嫡男・浅野幸長
⑥ 徳川家康のひ孫である敬台院の夫・蜂須賀至鎮
⑦ 徳川家康の次女である督姫の夫・池田輝政
などが参加。
全部で28人もの武将が集まったといわれています。
小山評定の内容
紹介したように、小山評定は今後の進退を話し合うために開かれました。
具体的には、どのような内容だったのでしょうか。
石田三成の討伐
豊臣家に忠誠心を見せるため、多くの武将は妻子を大坂に留めていました。
石田三成を討とうとしたら、妻子を殺される可能性がありました。
28人全員が石田三成を討つのであれば、何も問題ありません。
ただ、妻子を救いたい気持ちから、誰かが後に裏切るおそれがあります。
そこで、徳川家康は小山評定に参加した武将の意向を確かめる必要がありました。
プレッシャーを与えないよう、徳川家康は、
妻子が人質になっているのだから、進退はそれぞれ自由に決めたらいい。
と言います。
妻子を選ぶか、徳川家康を選ぶか。
皆が沈黙すると思ったその時、なんと、福島正則が「徳川家康に味方する」と言いました。
福島正則に続き、黒田長政、山内一豊が次々と「徳川家康に味方する」、「石田三成を討つ」と賛同しました。
東海道筋の城の明け渡し
更に、山内一豊が居城・掛川城を徳川家康に提供すると申し出、東海道筋の大名の居城が明け渡されました。
つまり、徳川家康は城と兵糧の確保に成功したんです。
こうして、上杉景勝を討つために、会津に向かっていた徳川家康は一転して大坂に向かうことになりました。
小山評定は実際にはなかった?
小山評定の参加者や内容を紹介しましたが、実は小山評定はなかったのではないかともいわれています。
というのも、小山評定に関する一次史料がなく、根拠がないからです。
ただ、参加者や内容は別として、武将が小山に集まったことは間違いないとされています。
福島正則、黒田長政、山内一豊といった戦国時代を代表する武将が次々と手を上げ、まるでドラマのような展開だった小山評定。
ただ、実際には、軍議はスムーズに進まなかったのかもしれませんね。
まとめ:小山評定があったからこそ、東軍が勝利した!
関ヶ原の戦いの軍議・小山評定が開かれた理由、参加者と内容、実際にはなかったといわれる理由を紹介しました。
小山評定では、妻子を失ってでも石田三成を討つという武将の決意表明がなされました。
足並みの揃わなかった西軍に対して、結束力の強かった東軍。
小山評定はまさに関ヶ原の戦いの軍議といえるのではないでしょうか。
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