関ヶ原の戦いの直前の第二次上田合戦!結果を受けて本多正信がとった行動は?

天正13年(1585年)に起きた第一次上田合戦から15年後。

徳川軍と真田軍は再び上田城で戦うこととなります。
ところが、ここでも真田昌幸の策略により、徳川秀忠は撤退を余儀なくされました。

関ヶ原の戦いの直前の第二次上田合戦結果を受けて本多正信がとった行動を紹介します。

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第二次上田合戦とは?

慶長5年(1600年)9月15日に勃発した関ヶ原の戦い。
実は、この約2週間前の9月2日。

真田家が拠点とする信濃国の上田城で、
① 徳川家康の三男・徳川秀忠
② 真田昌幸・信繁(幸村)親子
の間で戦が繰り広げられました。

小山評定の後、徳川家康が指揮する東軍は石田三成を討つべく、京都へ向かいます。

この時、徳川家康本隊は東海道を進みました。
一方、徳川秀忠が指揮する部隊は中山道を進みました。

というのも、西軍についた真田昌幸・信繁親子を討つよう、徳川家康から命じられていたからです。

信濃国にたどり着いた徳川秀忠。
徳川秀忠を見るなり、真田昌幸は嫡男・真田信之を通じて、降伏を申し出ます。

真田信之の妻は徳川家康の養女・小松姫。

血の繋がりがないとはいえ、徳川秀忠にとって、真田家は義兄妹の夫の家。
徳川秀忠は真田昌幸を信じて、降伏を受け入れます。

ところが、その翌日、真田昌幸は態度を一変。
徳川秀忠を挑発し、上田城に籠城してしまいました。

こうして、第二次上田合戦が始まりました。

徳川秀忠率いる徳川軍3万8000人に対し、真田昌幸率いる真田軍は2500人。
徳川秀忠は上田城をあっという間に攻略できるものだと思っていました。

ところが、上田城の守りが強固なうえに、真田昌幸の策略にはまり、上田城をなかなか攻略できません。

徳川家康にとって、上田城を攻略することより、石田三成を討って関ヶ原の戦いを勝利に導くほうが大事。
徳川家康は「上田城攻めを諦め、本隊と一刻も早く合流するように」と徳川秀忠に命令します。

戦を始めて5日後、徳川秀忠は上田城にわずかな兵を残し、関ヶ原に向かいます。
ところが、天候の悪い日が続き、通る道はどこもぬかるんでいました。

結局、徳川秀忠は関ヶ原の戦いが起きる9月15日に間に合いませんでした。

上田城から徳川秀忠軍を撤退させ、西軍の時間を稼いだ真田家。
第二次上田合戦の勝者は徳川秀忠、真田家のどちらともいえませんが、徳川秀忠が徳川家康の顔に泥を塗ったことに違いはありませんね。

結果を受けて本多正信がとった行動は?

実は、上田城攻めをした徳川秀忠には本多正信が同行していました。

本多正信といえば、徳川家康の参謀で、真田昌幸に負けない策略家です。

ところが、この本多正信でさえも、

上田城を攻めるより、徳川家康本隊と合流するべき。

と徳川秀忠に進言しています。

・天気が崩れると予想していたからか
・戦が長引くと予測できたからか
本多正信の真意はわかりません。

ただ、本多正信の進言を受け入れていれば、徳川秀忠が関ヶ原の戦いに遅刻することはありませんでした。

本多正信の進言を受け入れなかった徳川秀忠。
後に、徳川家康の跡継ぎを選ぶ会議では、他の武将が徳川秀忠を推薦する中、本多正信だけは徳川家康の次男・結城秀康を推薦したといわれています。

本多正信は、
・家臣の進言を素直に受け入れない
・戦の見る目がない
と判断し、徳川秀忠を頼りなく感じたのかもしれませんね。

まとめ:徳川家康・秀忠親子は真田昌幸・信繁親子の策略にはまった!

関ヶ原の戦いの直前の第二次上田合戦結果を受けて本多正信がとった行動を紹介しました。

徳川秀忠が軍を撤退させて終結した第二次上田合戦。
上田城を攻略できなかったうえに、関ヶ原の戦いに遅刻し、徳川秀忠は徳川家康の顔に泥を塗ってしまいました。

本多正信は徳川家康の跡継ぎとして結城秀康を推薦しました。

この約20年後、本多正信の嫡男・本多正純は流刑となります。
この頃から、徳川秀忠と本多家の間に確執が生まれていたのかもしれませんね。

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