金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)における徳川家康の動きをわかりやすく解説

永禄5年(1562年)に織田信長と清州同盟を結んだ徳川家康。
同盟を結んだ後、徳川家康は援軍を送って織田信長を助けましたが、初めて自ら出陣した戦いが金ヶ崎の戦いです。

金ヶ崎の戦い金ヶ崎の退き口)における徳川家康動きわかりやすく解説します。

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金ヶ崎の戦いとは

金ヶ崎の戦いは元亀元年(1570年)4月に、織田信長と越前国の朝倉義景の間で勃発した戦いです。

足利義昭を上洛させ、室町幕府第15代将軍に就任させることに成功した織田信長は、堺や草津、大津を直轄地とすることを認められ、畿内の流通を掌握。
織田信長は越前国の平定に乗り出しました。

おゆう
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北近江の浅井長政に妹・お市の方を嫁がせ、織田信長は浅井長政と同盟を結びます。

そして、清洲同盟を結んでいた徳川家康に援軍を依頼。
織田信長は花城山を本陣敏、浅井軍、徳川軍と合流して、朝倉義景の支配下にある天筒山城を攻める予定でした。

お嬢ちゃん
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ところが、浅井軍は合流しませんでした。
それどころか、手筒山城に攻め込む日になってもやって来ません。

浅井軍抜きで手筒山城を攻略することになりましたが、織田信長は手筒山城を無事陥落させることができました。

手筒山城を足掛かりに、続いて、金ヶ崎城を攻めます。
従兄・朝倉義景から金ヶ崎城を任されていた朝倉景恒は降伏して開城し、織田信長は朝倉景恒を朝倉家へ帰らせました。

織田信長に降伏した朝倉景恒は朝倉家に帰還するも、皆から「不甲斐ない」と責められ、永平寺に隠居して半年も経たないうちに亡くなりました。

手筒山城、金ヶ崎城を攻略し、ついに、朝倉義景を討つ日がやってきました。

戦略の打ち合わせをするから合流してほしいと、織田信長は浅井長政に連絡しましたが、浅井軍はやはり合流しませんでした。

この時、織田信長は浅井長政に裏切られたことにようやく気付きますが、時すでに遅し。
織田信長は朝倉軍と浅井軍に挟み撃ちにされてしまいました。

南近江の六角義賢(承禎)も、朝倉軍・浅井軍に味方しました。

織田家臣・松永久秀は近江国の土豪・朽木元綱に交渉し、朽木越え(滋賀県高島市から京都に続く道)を通り、織田信長は京都に到着。

その後、京都から美濃に帰ろうとしましたが、美濃に続く中山道が封鎖されていたため、千草越え(滋賀県日野市から三重県四日市市に続く道)を通りました。
この時、六角義賢が送った杉谷善住坊によって銃撃を受けましたが、一発は頭をかすめ、もう一発は南蛮胴に当たり、間一髪で命中を逃れ、織田信長は美濃に無事帰還しました。

美濃に帰還した織田信長は近江国の阿弥陀寺に隠れていた杉谷善住坊を探し出し、捕縛して尋問した後、極刑に処しました。

金ヶ崎の戦いにおける徳川家康の動き

織田信長、浅井長政と共に、朝倉義景を討つ予定だった徳川家康は、5千の兵を率いて、花城山へ向かいました。

朝倉義景に寝返った浅井軍は出陣しませんでしたが、徳川家康は手筒山城攻め、金ヶ崎城攻めに加わりました。

おゆう
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手筒山城を攻略するにあたって、南に位置する大手口を攻めて、敵をひきつけたうえで、東南から崖を登って城に攻め入るといった戦略を提案。

徳川家康の戦略は織田信長に採用され、その結果として、手筒山城の陥落に成功しました。

また、朝倉軍と浅井軍に挟み撃ちされた織田信長から任され、豊臣秀吉、明智光秀と共に殿(しんがり)を務め、織田信長が京都に到着するまでの時間稼ぎをしました。
織田信長の千草越えにも同行し、織田信長の美濃帰還に大きく貢献しました。

まとめ

金ヶ崎の戦い金ヶ崎の退き口)における徳川家康動きわかりやすく解説しました。

義弟・浅井長政に裏切られ、六角義賢の送った杉谷善住坊に狙撃され、ピンチに陥った織田信長。

35歳の織田信長を救ったのは、29歳の徳川家康でした。
金ヶ崎の戦いは、織田信長の前で、徳川家康が才覚を表す戦いとなったのではないでしょうか。

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