慶長20年(1615年)5月に、大坂夏の陣で勝利して豊臣家を滅ぼした徳川家康。
大坂夏の陣が終結した翌月、徳川家康は一国一城令という法令を制定しました。
徳川家康が定めた一国一城令の内容や目的、与えた影響をわかりやすく解説します。
徳川家康が定めた一国一城令の内容
一国一城という字面から、
一国一城令は一つの国で一つの城しかもってはいけないと定めた法令?
と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。
鎌倉時代では、一つの国に一人の大名が配置されていました。
ところが、戦国時代に入ると、大名を名乗る武将が増加。
一つの国に複数の大名が存在するようになります。
複数の城をもつ大名は居城以外の城(支城)を全て手放さなければいけませんでした。
一国一城令の具体的な内容は次のとおりです。
① 一つの令制国を複数の大名で分割して領有している場合は、大名ごとに一城とする
例えば、伊予国は3人の大名が分割して領有していました。
そのため、伊予国には、大洲城(加藤氏)、松山城(久松松平氏)、宇和島城(伊達氏)の3つの城が存在しました。
② 一つの大名家が複数の令制国に跨がって領有している場合は、令制国ごとに一城とする
例えば、藤堂氏が領有していた伊勢国と伊賀国には、それぞれ安濃津城と上野城が存在しました。
徳川家康が定めた一国一城令の目的
一国一城令により廃された城のほとんどが西日本に配置された外様大名のものでした。
徳川家康は大名を親藩、譜代大名、外様大名の3つに分類し、外様大名の周りに親藩や譜代大名を配置して、外様大名の動きを監視させていました。
でも、親藩や譜代大名に外様大名の動きを監視させていても、江戸から遠く離れた西日本で反乱が起きたらどうしようと心配になりました。
そこで、一国一城令を制定し、支城を廃することで、外様大名の戦力を削ることにしたんです。
例えば、加賀100万石で有名な加賀藩前田氏です。
加賀藩初代藩主・前田利長は母・芳春院(まつ)を徳川家に送り、人質として差し出しました。
また、弟・前田利常を養子に迎えて跡継ぎとし、徳川秀忠の娘・珠姫と結婚させました。
当初、
・加賀国に金沢城
・能登国に小丸山城
・越中国に富山城
がありましたが、一国一城令により、金沢城のみを残して、他の城は全て廃されました。
ところが、徳川家と姻戚関係を結んでいたため、加賀国に小松城を築くことが特別に許可されました。
小松城の城域は金沢城のなんと2倍もの広さ。
城を2つ以上もっていた大名は前田氏の他にもいましたが、居城を超える大きさの城をもつ大名はいませんでした。
徳川家康が定めた一国一城令が与えた影響
一国一城令は大名に次のような影響を与えました。
外様大名の戦力が削られた
紹介したように、一国一城令によって廃された城のほとんどが西日本に配置された外様大名のもの。
徳川家康は西日本を中心に外様大名の戦力を削り、幕府の支配体制を強化することに成功しました。
大名が家臣を統制しやすくなった
戦国時代には、大名の家臣も城をもっていました。
軍事的機能を備えていた城で、クーデターを企てる家臣もいました。
ところが、一国一城令により、家臣は城をもてなくなりました。
つまり、家臣はクーデターを企てるのが難しくなったんです。
大名だけが城をもつことになり、大名は家臣を統制しやすくなりました。
まとめ:一国一城令は大名にとって良くもあり悪くもある法令だった!
徳川家康が定めた一国一城令の内容や目的、与えた影響をわかりやすく解説しました。
一国一城令により、大名は一つの城しかもてなくなり、戦力を削られました。
一方、家臣が城を一つももてなくなったことで、大名は家臣を統制しやすくなりました。
一国一城令は諸国に泰平の世をもたらしたんですね。
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