長篠の戦いで徳川家康と奥平信昌に忠義を見せた鳥居強右衛門の最期と子孫

鉄砲を使用した織田信長と徳川家康が武田勝頼に圧勝した長篠の戦い。

織田信長と徳川家康が勝利できたのは、鉄砲のおかげだけではありません。
徳川家康ではなく、奥平信昌に仕えた鳥居強右衛門の命がけの作戦がありました。

長篠の戦い徳川家康奥平信昌忠義を見せた鳥居強右衛門最期子孫を紹介します。

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長篠の戦いで徳川家康と奥平信昌に忠義を見せた鳥居強右衛門の最期

鳥居強右衛門は天文9年(1540年)生まれですが、両親の名前は判っていません。

鳥居強右衛門の主君は、元武田家臣で現徳川家臣の奥平信昌。
奥平信昌のもとで、足軽を務めていました。

奥平信昌は武田信玄、武田勝頼の2代にわたって武田家に仕えました。

ところが、元亀4年(1573年)、奥平信昌の父・奥平定能が大きな賭けに出ます。
当時戦国最強と呼ばれた武田軍を抜け、徳川家康の呼びかけに応じて、徳川家に寝返ったんです。

こうして、奥平信昌も奥平定能と一緒に徳川家に仕えることとなります。
そして、その見返りとして、徳川家康の長女・亀姫と結婚し、長篠城主を任されました。

鳥居強右衛門は500人の城兵と共に、長篠城の守備に当たりました。

武田包囲網を突破する

天正3年(1575年)5月、武田勝頼が1万5000人の兵を率いて、長篠城を攻撃しました。

紹介したように、長篠城の城兵はたった500人。
武田軍と戦うのは困難だと判断した奥平信昌は籠城戦にもちこむことにしました。

ところが、武田軍は城の北側にあった兵糧庫に火を点け、兵糧を焼失してしまいます。
籠城する兵にとって、兵糧は命の次に大切なもので、兵糧が尽きては籠城できません。

おゆう
おゆう

そこで、徳川家康に使者を送り、援軍を要請することとなりました。

でも、長篠城は四方を武田軍に包囲されています。
城を抜け出して、徳川家康のもとへ向かうのは、とても危険を伴う任務でした。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

その危険を伴う任務を自ら引き受けた人物こそ、鳥居強右衛門でした。

鳥居強右衛門と泳ぎの得意な鈴木金七は、深夜に城の下水口から川に出ます。
そして、川を潜って、武田軍の包囲網(鳴子網)を突破しました。

徳川家康に援軍を要請する

翌朝、鳥居強右衛門は長篠城から見える雁峰山で狼煙を上げ、
① 包囲網を突破したこと
② これから徳川家康のもとへ向かうこと
を知らせました。

午後には徳川家康の滞在する岡崎城に到着し、長篠城の状況を報告。
徳川家康は「織田・徳川連合軍3万70000人の兵を率いて、長篠城に向かう」と約束しました。

徳川家康と奥平信昌に忠義を見せて迎えた最期

奥平信昌に状況を報告しようと、鳥居強右衛門はすぐに長篠城に引き返しました。

ところが、鳥居強右衛門は長篠城付近の村で見張りをしていた武田軍に捕まってしまいます。

・長篠城付近の山で狼煙が上がったこと
・その狼煙を見た城兵が歓声を上げたこと
を不審に思い、武田勝頼は見張りを強化していたんです。

武田勝頼は鳥居強右衛門を取り調べ、織田・徳川連合軍が助けにやって来ることを知りました。

織田・徳川連合軍3万8000人もの兵を1万5000人の兵で撃退できるわけがありません。

早く決着をつけなければと焦った武田勝頼は「援軍は来ないから、降伏して開城するように」と長篠城へ呼びかけるよう、鳥居強右衛門に命令しました。
また、鳥居強右衛門の命を助けることはもちろん、武田家臣に迎えて、厚くもてなすと約束しました。

鳥居強右衛門は武田勝頼の提案に応じる姿勢をみせ、武田軍によって、長篠城の前に引きずり出されました。

ところが、鳥居強右衛門が発した言葉は「援軍がやって来るから、あと2日耐えるように」という、武田勝頼が最も言ってほしくない内容でした。

鳥居強右衛門は武田勝頼によって殺されましたが、鳥居強右衛門の声は長篠城に届いています。

奥平信昌は城兵を励まし、また、城兵は「鳥居強右衛門の死を無駄にしない」と心に誓いました。
そして、織田・徳川連合軍が到着するまで、長篠城を守り抜きました。

ところで、鳥居強右衛門と一緒に岡崎城に向かった鈴木金七はどうなったのでしょうか。

実は、鈴木金七は鳥居強右衛門と別行動をとり、岡崎城にとどまっていました。
鳥居強右衛門の死後、鈴木金七は奥平家を離れて、出身地・作手村田代に帰り、農業を営んでいました。

それから35年が経った慶長15年(1610年)、奥平信昌の四男・松平忠明が鈴木金七を訪ねました。
松平忠明は鈴木金七を責めることなく、200石を与えて、当時の感謝の気持ちを伝えました。

鳥居強右衛門の子孫

紹介したように、鳥居強右衛門は奥平家の一介の足軽でした。

でも、長篠城を救った功績により、子ども・鳥居信商は奥平家の100石取りの武士に昇格。
奥平信昌の次男で、徳川家康の養子となった松平家治に仕えます。

天正20年(1592年)に、松平家治が14歳の若さで亡くなると、鳥居信商は再び奥平信昌に仕えました。
関ヶ原の戦いでは、西軍の安国寺恵瓊を捕まえ、200石に出世。

奥平信昌の四男・松平忠明が徳川家康の養子になると、松平忠明に仕え、代々奥平松平家を支え続けました。

鳥居強右衛門の子孫は通称・強右衛門を代々継承しました。

まとめ:鳥居強右衛門の忠義が徳川家康を救った!

長篠の戦い徳川家康奥平信昌忠義を見せた鳥居強右衛門最期子孫を紹介しました。

鳥居強右衛門は武田軍に包囲された長篠城を脱出し、徳川家康のもとへ大急ぎで向かって、援軍を要請しました。
そして、長篠城の城兵を励まそうと、武田勝頼の前で援軍がやってくることを堂々と知らせました。

鳥居強右衛門が援軍の要請に成功していなければ、長篠城はあっという間に武田勝頼の手に落ちていたのではないでしょうか。

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